初級翻訳・ニールスのふしぎな旅 第60話

ニールスのふしぎな旅

ところが、わらの中にもぐりこんだか、もぐりこまないかといううちに、またも牝牛が話しかけてきました。
「もうひとつお願いがあるんですけど、どうでしょうね?」
「ぼくにできることならばね」と、ニールスは答えました。
「それじゃ、お願いしますが、この向かいにある母屋へいって、奥さんの様子を見てきてください。どうかしたんじゃないかと心配でたまらないんです」
「いや、そりゃあ困るよ。ぼくは人間の前に出ていく勇気はないもの」と、ニールスは言いました。
「病気のおばあさんを怖がることはないじゃありませんか。それに、部屋の中まではいっていかなくても、戸口に立って、すきまからのぞいてくれればいいんですもの」と、牝牛は言いました。
「うん、それだけのことなら、ひきうけたよ」と、ニールスは言いました。

そこで、牛小屋の戸をあけて、中庭に出ました。ところが、なんという恐ろしい晩でしょう。空にはお月さまもお星さまもなく、風がヒュウ、ヒュウとものすごいうなり声をあげ、雨がザア、ザアとはげしく降っています。それに、なによりも恐ろしいことには、母屋の軒に、大きなフクロウが七羽もならんでとまっているではありませんか。そのフクロウたちが、雨風にむかってうなっている声を耳にしますと、思わずぞっとしてしまいます。しかも、その一羽にでも見つかったら、いったい自分の身はどうなるでしょう。そのときこそ、この身の最後であるにちがいありません。そう思うと、ますます恐ろしくなりました。

それでも、ニールスは思いきって中庭にでました。そして、「ちっぽけなものは、あわれだなあ!」と、ひとりごとを言いました。ほんとうに、そのとおりでした。なぜって、母屋につくまでに、風のために二度までも吹きとばされてしまったのです。一度などは、水たまりの中に吹き倒されました。しかもその水たまりは深かったので、もう少しでおぼれそうになりました。でも、ようやくのことで母屋にたどりつきました。階段をのぼり、しきいをこえて、玄関に入りました。部屋の戸はしまっていましたが、すみのほうに、ネコが出入りできるくらいの穴があいていました。ニールスは、そこから中の様子をのぞいて見ました。

ところが、ひと目見たしゅんかん、びっくりして、おもわず頭をひっこめました。白髪のおばあさんが、床の上にたおれているではありませんか。身動きもしませんし、うめき声一つあげません。それでいて、顔はふしぎに白く輝いていました。まるで、雲間にかくれたお月さまの弱い光に照らされているようでした。ニールスは、自分の祖父が死んだときにも、やっぱりこんなふうに、ふしぎに白い顔をしていたことを思い出しました。そうしてみると、床の上にたおれているおばあさんは、きっと死んでいるのにちがいありません。おそらく、寝床にはいるひまもなく、急にたおれてしまったのでしょう。こんな暗い真夜中に、死んだ人とふたりきりかと思うと、たまらないほど恐ろしくなりました。ころがるように階段をかけおりて、大急ぎで牛小屋にとんで帰りました。

ニールスが母屋で見てきたことを話しますと、牝牛は食べるのをやめて、「それじゃ、奥さんは死んだんですね。すると、このわたしも、もうおしまいですよ」と言いました。
「だれか、きみの世話をしてくれる人が、じきに来るよ」と、ニールスはなぐさめて言いました。
「ああ、おまえさんは知らないけれども、わたしはね、ふつう屠殺台につれていかれる牛よりも、倍も年をとっているんですよ。でも、もうあのおくさんに面倒をみてもらえないんなら、生きていたいとも思いません」

牝牛は、しばらくのあいだ、ひとことも言いませんでした。しかし、ニールスが気をつけて見ていますと、牝牛は眠ってもいなければ、草をたべてもいませんでした。そして、やがてまた話しはじめました。
「奥さんは、何もない床の上にたおれているんですか?」と、牝牛はたずねました。
「そうだよ」と、ニールスは答えました。
「奥さんは、この小屋へきては、いつも苦しいことを話していましたっけ。わたしには答えることはできませんでしたが、言うことはみんなわかりましたよ。この二、三日は、自分が死んだとき、だれもそばにいてくれないのが、とっても心配だと言っていました。死んでも、目をとじてくれたり、両手を胸の上で組み合わせてくれる人のいないのが、気になってしかたがなかったんですね。どうか、おまえさん、もう一度いって、そうしてやってくれませんか?」

ニールスはためらいました。でも、おじいさんが亡くなったときには、お母さんがすべてを立派に片付けていたことを思い出しました。
そして、誰かがそれをしなければならないのだ、とニールスは思いました。
とはいえ、こんな不気味な真夜中に、死んだ人のところへ行く気にはどうしてもなれません。
ニールスは嫌だとも言いませんでしたが、かといって、入り口の方へ向かおうともしませんでした。
年老いた牝牛は、返事を待っているのか、しばらく黙っていました。
しかし、ニールスが何も言わないので、また話し始めました。
でも、もう一度頼もうとするのではなく、今度は奥さんの昔のことを語り始めたのです。
話したいことは山ほどありましたが、まず最初は、おばあさんが育てた子供たちのことでした。
子供たちは毎日牛小屋へやってきました。
そして夏になると、沼や木々の茂った森の中へ、牝牛を連れて行ってくれたものです。
だから、この牝牛は子供たちのことを何でも知っていました。
どの子も丈夫で、明るく、一生懸命に働く子たちでした。
「牛というものはね、自分のお世話をしてくれる人が、いい人かどうかをよく知っているものですよ」と、牝牛は言いました。
農場についても、いろいろな話がありました。
農場はとても広かったのですが、その大部分は沼地や石だらけの荒れ地でした。それでも、今のように荒れ果ててはいなかったのです。
畑として使える場所は少なかったものの、牧草はどこにもたくさん生えていました。
一時期などは、牛小屋のどの区画にも一頭ずつ牛がいましたし、今は空っぽになっている牡牛小屋にも、立派な牡牛がたくさんいたものでした。
ですから、そのころは母屋を見ても、牛小屋を見ても、みんな陽気で喜びにあふれていました。
奥さんは牛小屋の戸を開けるときにはいつも鼻歌を歌っていましたし、牛たちも奥さんが来たのを喜んで、モウモウと鳴いていたものです。
ところが、この家のご主人は、子供たちがまだ小さくて仕事の手助けもできないうちに亡くなってしまいました。
そのため、奥さんは農場のことを一切ひとりでやらなければならなくなったのです。
奥さんは男のようにしっかりした人で、自分で畑を耕したり、収穫もしたりしました。
でも、夕方になって乳をしぼりに牛小屋へやってくると、疲れすぎて泣いてしまうこともありました。
しかし、すぐに子供たちのことを思い出すと、元気を取り戻すのでした。
そして、涙を拭きながらこう言ったものです。
「なんでもない。なんでもないよ。あたしにだって、またいい時が来るわ。子供たちが大きくさえなれば。そうよ、子供たちが大きくなれば」
しかし、子供たちは大きくなると、それぞれに不思議な憧れを抱くようになりました。

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