だからこそ、先住民族をいじめたり、暴力で彼らの国を力ずくで奪ったりするようなことはせず、常に「徳(思いやりの心)」をもって導き、深い「恩」をもって誘い、仲良くする手段(懐柔手段)を使いながら、同じ一つの民として仲良く溶け合っていこうとしたんだ。
それは、歴史のなかの先住民族に対する政策の実際のようすを見れば、ハッキリとわかることだ。
また、これを古い神話や伝説から調べてみても、天孫降臨(てんそんこうりん)のときから代々、この国にもともといた神様(国津神=くにつかみ)の娘を自分たちの奥さんに選んできたと伝えられている。
国津神というのは、すなわち先住民族のことであり、そのお互いの関係は、天の神様が「父親」であり「夫」であり、地の神様(先住民)が「母親」であり「妻」であるという、家族のような間柄だったのだ。
こうして、ここに私たちの素晴らしい日本民族が誕生したのである。
しかしながら、長い長い年月のあいだには、時には平和的なやり方がうまくいかなくなることもあり、そのせいで先住民族の反乱や暴動を引き起こしてしまい、国の大きな力をもってそれを鎮めなければならない場合も、決して少なくはなかった。
いわゆる「征夷(せいい=蝦夷を討つ)の軍」というのは、そういうものだったのだ。これが原因で、考えの浅い歴史家の中には、ときどき「日本もほかの国と同じように、ほかの土地をうばい取るような国だったのではないか」と考えてしまう人もいます。でも、エミシを討ち平らげた「征夷(せいい)」のような出来事は、長い歴史の中のほんの一時的なハプニングにすぎず、日本がずっと大切にしてきた、ほかの民族に対する方針の本当の姿ではありません。
しかも、こうしたハプニングが起きてしまうような大きなトラブルは、たいてい「マット狢」のような、日々のちょっとした小競り合いや身勝手な振る舞いから芽を出していくのです。
たとえば、奈良時代の宝亀(ほうき)年間におきた、上治郡(かみつみちのこおり)のリーダーである伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の反乱なんていうものは、その戦いがなんと延暦(えんりゃく)の終わりのころまで続き、最終的にはあの有名な坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が軍を率いてやっと鎮めることができたという、ものすごい大事件でした。
けれど、その直接の引き金となったのは、呰麻呂の生まれがもともとエミシ(夷俘)だったという理由から、思いやりのない牡鹿郡(おしかのこおり)のリーダー・道島大楯(みちのしまのおおたて)が、日ごろから彼を見下し、ひどい扱いをしていたことを深く恨んだからだったのです。
もちろん、あんな大爆発のような大事件が起きてしまうまでには、他にもたくさんの「マット狢」のような自分勝手な人間たちが、そのへんを我が物顔で暴れ回っていたことを見逃してはなりません。
「ケット」と「マット」。その言葉はとってもシンプルで、語られている内容も、むかし話や民間の言い伝えの一つにすぎないように思えるかもしれません。
だけど、その言葉の奥に秘められている意味や歴史は、とてもとても大きなものなのです。
私たちの日本民族がどのように歩み、発展してきたのかを研究する人たちは、このことについて、もっと深く心に思いをめぐらせなければならないのです。
(昭和六年十月九日)
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