初級翻訳・かもめ 第12話

かもめ

ぼくはまるで、汽車の時間におくれた百姓みたいに、どんどん後ろに取り残されてしまうんだ。
それで結局のところ、自分にできるのは自然の描写くらいなもので、ほかのことにかけては自分はすべてニセモノだ、骨の髄までニセモノなんだ、と思い込んじまうのさ。
ニーナ あなたは働きすぎで疲れ切っているから、ご自分の本当の値打ちに気づくひまも、そんな気持ちになる余裕もないんですわ。たとえご自分では自分のことが不満だらけだとしても、他の人から見たら、あなたはとっても偉くて素晴らしい人なんですよ!もしわたしが、あなたみたいなすごい作家になれたなら、自分の人生のすべてを世の中のみんなのために捧げちゃうのにな。
でも心のなかでは、みんなの幸せっていうのは、結局のところ、わたしのレベルまで引き上がってくることなんだってはっきり分かってるわ。
そうしたら、みんなはわたしを素敵なお祭りの馬車に乗せて、街中を引っ張って歩いてくれるんだわ。
トリゴーリン ほう、お祭りの馬車かい。
……まるで古代の王様アガメンノンになった気分だなあ!(ふたりでにっこり微笑み合う)
ニーナ 女の作家だとか、女優だとか、そんな風になれるなら、わたしは周りの人たちに嫌われたって、お金がなくなって貧乏になったって、色んな夢がぶっこわれちゃったって、どんなことだって立派に耐えてみせるわ!
屋根裏部屋みたいな狭いところで暮らして、黒パンばかりかじって、自分ってなんてダメなんだろうって思い悩んだって、そんなのかまいやしない。
その代わり、わたしは絶対に手に入れてみせるの、名声を……ほんとうの、まわり中をあっと言わせるようなすごい名声をね!
……(両手で自分の顔をパッと覆う)頭がくらくらするわ……ううっ!
アルカージナの声 (家の中から)トリゴーリンさーん!
トリゴーリン おっと、ぼくを呼んでるよ。
きっと荷造りの時間だな。
だけどさ、ここから出発したくないなあ。
(湖のほうを振り返って)ああ、なんて素晴らしい大自然の恵みなんだ……!最高だね!
ニーナ 向こう岸に、お家と大きなお庭が見えるでしょう?
トリゴーリン うん、見えるよ。
ニーナ あそこがね、わたしのお母さんのお屋敷だったところなの。
わたし、あそこで生まれたのよ。
だからずっと、この湖のそばで育ってきたから、湖にあるどんなに小さな島でも、全部ぜんぶ知っているわ。
トリゴーリン ここは本当に素晴らしいところだなあ!(ふとカモメを見つけて)あれはなんだい?
ニーナ かもめよ。
トレープレフさんが撃っちゃったの。
トリゴーリン 綺麗な鳥だね。
いやあ、本当にここから離れたくないなあ。
なんとかアルカージナさんを説得して、もう少しここにいられるように頼んでくれないかな。
(手帳を取り出して、何かを書きこむ)
ニーナ ねえ、なに書いてるの?
トリゴーリン ちょっとね、メモをとっているんだ。
……今度書きたいお話のアイデアが思い浮かんだからね。
……(手帳をしまいながら)ほんの短いお話なんだけどさ、湖のほとりに、ちょうどきみみたいな若い女の子が、子供のころからずっと住んでいるんだ。
かもめみたいに湖が大好きで、かもめみたいに自由で幸せなんだ。
ところが、そこにふらっとやって来た男が、その女の子を見て、退屈しのぎに、女の子の人生をめちゃめちゃにして壊してしまう――ほら、さっきのこのかもめみたいにね。
(しばらく沈黙が流れる)
――やがて窓のところにアルカージナがひょっこり現われる。
アルカージナ トリゴーリンさん、いったいどこにいらっしゃるの?
トリゴーリン 今すぐ行くよ!(歩き出しかけてから、ふとニーナを振り返る。窓のそばにいるアルカージナに向かって)どうしたんですか?
アルカージナ ねえ、私たち、もう少しここに残ることにしたわよ。
トリゴーリンは家の中へ入っていく。
ニーナ (舞台の端のほうへ歩いていって、少し物思いにふけったあとに)夢みたいだわ……!

――幕――

第三幕

ソーリン家のお茶を食べる食堂。
部屋の左右にはドアがある。
食器棚や、お薬の入った戸棚が置いてある。
部屋の真ん中にはテーブルがドンと置かれている。
旅行用のカバンが一つと、帽子を入れる丸い箱がいくつか転がっていて、これからお出かけする準備のまっただ中であることがひと目でわかる。
トリゴーリンが朝ごはん(※ちょうどお昼前の早い時間のごはん)をもぐもぐと食べていて、マーシャはそのテーブルのすぐそばに立っている。
マーシャ これはみんな、作家であるあなただからこそお話しするんです。このお話は、あなたが物語のネタに使ってもいいわよ。
だけど自分の心臓に手を当てて誓うけど、あのトレープレフの怪我がもっと大怪我だったら、わたし、一分間だってもっていられなくて死んじゃっていたでしょうね。
でも、いまは不思議と勇気が湧いてきたの。
だから、きっぱりと決心したんだ。
この苦しい恋心を、自分の胸の中から引き抜いてしまおうって。
根っこから一思いにね。
トリゴーリン どうやってそんなことをするんだい?
マーシャ お嫁に行くのよ。
メドヴェージェンコのお婿さんのところへね。
トリゴーリン あの学校の先生のところかい?
マーシャ そうよ。
トリゴーリン なんだか信じられないな。
いったい何の必要があるっていうんだい?
マーシャ 何の望みもないのに片思いを続けて、何年も何年もずっと誰かを待ち続けるなんて……そんなのもううんざりだわ。
いっそさっさとにお嫁に行ってしまえば、もう恋で悩むどころじゃなくなって、新しい日々の苦労や大変さが、古い思い出を全部ぜんぶ消し去ってくれるわ。
それだけでもさ、ほら、人生の大きな変化になるでしょう?
ねえ、あともう一杯どう?
トリゴーリン 飲みすぎになっちゃうんじゃないかなあ?
マーシャ なあに、平気よ!(お酒をグラスに一杯ずつ注ぎながら)そんなにわたしの顔をじろじろ見ないでちょうだい。
女というものはね、あなたが思っているよりもずっと、お酒を飲むものなのよ。
わたしみたいにこうやって大っぴらに飲む人は少ないかもしれないけど、隠れてこっそり飲んでる女は大勢いるんだから。
そうなのよ。
しかも、飲むといったらきまって、強いウォトカかコニャックよ。
(グラスをコツンと当てて)プロジット(乾杯)! あなたは本当にさっぱりしたいい人ね。
お別れするのがなんだか寂しいわ。
(ふたりでグラスをグイッと飲みほす)
トリゴーリン ぼくも、こんなところから本当は発ちたくはないんだよ。
マーシャ だったらあの人に、もう少しここにいましょうってお願いしたらどうかしら。
トリゴーリン いや、もう無理だろうね。
なにしろあの息子が、毎日めちゃくちゃで勝手なことばかりやらかすからねえ。ピストルで自分を撃とうとしたかと思えば、今度はこのぼくに決闘を申し込むだなんて言い出すんだから。
一体なんのつもりなんだか! むすっとすねてみせたり、鼻を鳴らしたり、新しい芸術のスタイルを大声でまくし立てたり……。
いやいや、客席のシートはまだいくらだって空いているよ。

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