劉子の美しい顔が、音もなく彼の腕の中で意識を失っていきました。
次いで伊曾は、自分自身の首を切り裂いたのです。
失踪した村瀬と明子は、三ノ宮駅で家からの追手に発見されました。彼らは色を失った宝石のようでした。
二人は別々の列車で東京へ連れ帰されました。途中の寝台車のなかで、明子は自らの肉体の奥底に、不思議な他の者の動揺を感じました。胎動に違いありませんでした。
それに伴って、彼女の心臓も思い出したように苦痛を訴えはじめました。
明子はこの時、さめざめと泣きました。
人々は彼女の不幸を哀れみました。しかし人々は何も知らなかったのです。
明子がはじめての母性の感傷に囚われて泣いたのであることも、心臓の苦痛はただ彼女の泣き声を強めただけに過ぎないことも、彼女の涙がむしろ幸福な温かい涙であったことも、人々は何も知らないのです。
……
回復期にある明子は、よくこの苦しい回想を反芻しました。
彼女はそれに、残酷な楽しみさえ味わっているように見えました。
しかしこれらの光景の展開は、彼女の回復にしたがって次第に朦朧とした霧の向こうへ消えていきました。
その霧の表面には、幼児の蒼ざめた手足が伸びて横たわりました。
明子は家の中ですら素足では歩かないようになっていました。彼女は脚を厚い毛の靴下で包みました。
脂分が枯れ果てた彼女の皮膚は痛々しく、秋風に耐えられなかったのです。
いつか彼女の指先には、化粧の匂いが消えずに残るようになりました。
ふくよかな化粧の香りが、秋の深まりとともに次第に濃く、彼女の身辺にまとわりつきました。彼女は自分の皮膚を包み込む癖を覚えてしまったのです。
その頃になって、ある日明子は村瀬に手紙を書いて彼を誘い出しました。
彼らは示し合わせて、ある映画館の一隅で落ち合いました。三ノ宮駅で引き離されて以来、はじめての再会でした。
彼らが取った席は、スクリーンとはひどく斜めの位置にありました。映画はすでに始まっていました。
彼らの席のまわりには黒い人影が混み合い、無言のまま前後左右に揺れ動いていました。彼らも黙ってその影に加わりました。
何か古ぼけたサーカスの悲劇がスクリーンを流れていました。道化役の白い衣装が不格好に歪んで吊るされたように、スクリーンの中心を横切ったりしました。
その白っぽい光がある時はスクリーンいっぱいに膨らみ、客席の人の顔をぼんやりと照らし出すのでした。
明子はそのたびに隣の村瀬の方を盗み見しました。光はすぐに消えて、彼女は青年の表情を読む暇もありませんでした。
いつのまにか明子は、きっちりと黒い手袋をはめた自分の手の中に、村瀬の手を握りしめていました。
村瀬はぼんやりと映画の流れに視線をまかせているように見えました。
彼女は熱い吐息をボアの羽根毛のなかに漏らしました。彼女に何かが潤んで見えました。どこかに生温い涙の匂いを嗅ぐような気がしました。
明子は目を閉じて首をすくめ、ボアの羽根毛のなかに深く顔を埋め込みました。吐息に蒸されて滴を結んだ羽根毛が、冷たく鼻のあたりを湿しました。それが情感のやり場のない涙の感触と似ていたのかもしれません。
スクリーンでは、銀色に溶け入るような脚をした一人の踊り子が、乱れた食卓の上で前屈みに佇んで、不思議に複雑な笑いを漏らしました。
映画が消えました。
花咲いた明るい照明のなかで、二人は久しぶりに顔をまともに見合わせました。
青年は案外に健康そうな両頬に純真な火照りを漂わせ、明子を眩しそうに見上げていました。
明子の顔を微笑が波打ちました。
二人はうなずき合って外に出ました。彼らは群れをなす自動車の波を避けて、濠端の暗い並木道に肩を並べました。
妙に犯すことのできない沈黙が、二人を包み込んでいました。明子が先に沈黙を破り、青年に言いました。
――私をどうするつもりなの?
あわよくば、答えなど期待せず漠然と響いてくれればいいと願っていました。
けれど、彼女の声は妙に熱い波動を帯びて震えていました。
明子はそれを自覚しながらも、どうすることもできませんでした。
――え?
青年は不思議そうに、まるで予期していたかのように立ち止まり、彼女を見つめました。
彼は明子の声の震えに気づいたのです。
言葉の意味は、青年が送ってきた手紙の束が示唆する将来の決心について、漠然と問うているのに違いありませんでした。
仮にそうであったとしても、青年はこの瞬間、抽象的な説明がたった一つの現実的な行動によって置き換えられ、満たされるという、あの微妙な一瞬の到来を見抜いたのです。
青年は少しの間ためらいながら、明子をじっと見つめました。
やがて村瀬の目に、青年らしい決断の色が閃きました。
一台の自動車が、まるでそれを待ち構えていたかのように音もなく滑り寄ってきました。
明子は不思議な感動が自分の全身を熱くするのを感じました。
あらゆる毛穴が一斉に息を吐き出したかのようでした。
明子はその秘密を悟られるのを嫌がるかのように、すばやく身を翻して自動車のステップに足をかけました。
女は熱く湿った吐息を、ボアの羽根毛の中に埋め込みました。
明子は村瀬の肉体を知りました。
彼女はレダのように身をもがきました。
彼女の顔には、幼児に乳をふくませる母親のような柔和さがありました。
かと思えばそれは、反対に幼児から血を吸い取るような、残酷なものの微笑にも思われました。
その頃、街には一つの噂がありました。
第一の人が言いました。
――私は彼らが公園を歩いていくのを見た。二人は首に菊の花を飾って、誇らしげな様子だった。
第二の人が言いました。
――私は彼らが百貨店のショーウィンドウを覗いているのを見かけた。私が近づくと男は傲然と私を見返したが、女はむしろ避けるように自分の菊の花を反対側へ向けた。
第三の人が言いました。
――私は女が一人で、ある路線のホームから電車に乗ろうとしているところに行き会った。私が急いで乗り込もうとすると、女は一度車台にかけた片足をわざと引っこめて、人を見下すようなあの微笑を浮かべながら、私に先を譲った。首には紫色の菊の花をつけて。
噂は明子の耳にも届きました。
言うまでもなく、それは伊曾と劉子に関するものに違いありませんでした。
そしてこれらの目撃談は、どれも一面の真相と、一面の反感による大きな歪みとを併せ持っているに違いありませんでした。
明子はこの噂を耳にしたとき、不思議に美しいものを見たように思いました。
それはあるいは、様々な出来事が彼女を無残に踏み荒らしたあとの疲労が、知らず知らずのうちに彼女の情感の反射熱を高めていたせいかもしれません。
情感はいつの間にか、彼女の胸にふくよかな肉の線を与えていました。
呼吸をするたびに、その胸の線がまるで白鳥の胸のように豊かに膨らみました。
脂分が体内に沈殿して、何か不思議な重さが彼女自身を気だるくさせました。
いつしか皮膚にも同じ脂分が再び流れ始めていましたが、それは外光にさらすとむしろ醜い色合いを帯びていました。
彼女は日に幾度となく、ひそかにそれを化粧水で拭き取っていたものです。
そんな状態にある明子が、彼ら二人の首に咲いているという血紫色の菊の花を、まざまざと見るように感じました。
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