(彼女を立たせようとする)
アルカージナ いいじゃないの、誰が見たって。
あなたを愛してるこの気持ちを、誰に隠す必要があるっていうのよ。(彼の両手に何度もキスをする)わたしの大事な宝もの、向う見ずで困った人。あなたは馬鹿なことがしたいのかもしれないけれど、わたしは絶対いやだからね、離さないんだから。
……(笑いながら)あなたはわたしのものなの、ずっとわたしのものよ。
このおでこだってわたしのもの。
この目だってわたしのもの。
このすてきな、絹みたいな髪の毛だって、やっぱりわたしのもの。
……あなたはすっかり、ぜんぶわたしのものなんだから。
あなたは本当に天才で、頭もよくて、いまいるどの作家よりもすばらしくて、ロシアのたったひとつの希望なんだよ……。
……あなたの書く文章には本当の心がこもっていて、すごくスッキリしていて、新鮮で、おまけに元気が出るようなユーモアもあるわ。
……あなたはほんのひと筆で、人物の性格とか、景色の大切なところをパッと描き出せるでしょ。
あなたの描く人たちは、まるで本当に生きているみたいだわ。
あなたの本を読んで、夢中にならない人なんているわけないじゃない! これがただのお世辞に見える? わたしが機嫌をとるために言ってると思う? さあ、わたしの目をちゃんと見てちょうだい……よく見て……。
わたしが嘘をついてるように見える? ねえ、見てごらんさい、あなたの本当のすごさがわかるのは、この世界でわたしだけなんだからね。本当のことをあなたに言うのも、わたしだけよ、ね、大事な、可愛いひと。
……発つでしょうね? そうでしょ? わたしを棄てはしないことね?
トリゴーリン おれには自分の意志というものがない。
……おれはついぞ、自分の意志をもった例しがないのだ。
……気の抜けた、しんのない、いつも従順な男――一体これで女にもてるものだろうか? さ、つかまえて、どこへなり連れて行ってくれ。
ただね、一足もそばから放すんじゃないぞ……
アルカージナ (ひとりごと)これで、わたしのものだ。
(けろりと、どこを風が吹くといった調子で)でもね、もしお望みなら、お残りになってもいいことよ。
わたしは一人で発つから、あなたはあとで、一週間もしたら帰ってらっしゃい。
あなたはべつに、急ぐ用もないんですものね。
トリゴーリン いや、こうなったらいっしょに発とう。
アルカージナ お好きなように。
いっしょならいっしょでいいわ。
……(間)
トリゴーリン、手帳に書きこむ。
アルカージナ なんですの、それ?
トリゴーリン けさ、うまい言い方を聞いたもんでね。
「処女の林……」だとさ。
これは使える。
(伸びをする)じゃ、出かけるんだね? また汽車か、停車場、食堂、カツレツ、おしゃべり……
シャムラーエフ (登場)まことに残念ながら、申しあげます、馬車をお回ししました。
どうぞ奥さま、停車場へお出かけの時刻です。
汽車は二時五分に着きます。
それではアルカージナさま、おそれいりますが、役者のスズダーリツェフが今どこにいますか、お忘れなくお調べねがいますよ。
生きているかな? 達者ですかな? むかしはいっしょに飲んだものでしたっけ。
あの『郵便強盗』(十九世紀末のメロドラマの題)なんかやらせると、天下一品でしたな。
……あれといっしょに、さよう、エリサヴェトグラードで悲劇役者のイズマイロフが出ておりましたが、これまたなかなかの傑物でしてな。
……いや奥さま、そうお急ぎになることはありません、まだ五分は大丈夫です。
あるメロドラマでね、連中が謀叛人をやった時でしたが、不意に捕り手が踏みこむところで「残念、ワナにかかったか」と言うべきところを、イズマイロフは――「残念、ナワにかかったか」とやってね……(大きな声で笑う)ナワにかかったか!
彼がしゃべっている間に、ヤーコフは旅行カバンの世話をやき、小間使は帽子やマントやコウモリや手袋を、アルカージナに持ってくる。
皆々アルカージナの身支度を手伝う。
左手のドアから料理人がのぞきこみ、しばらくためらった後、おずおずとはいってくる。
ポリーナ、やがてソーリン、メドヴェージェンコ登場。
ポリーナ (手かごを持って)このスモモを、どうぞ道中めしあがって……。
大そう甘うございますよ。
何か変ったものも、欲しくおなりかも知れませんから……
アルカージナ まあ御親切にね。
ポリーナさん。
ポリーナ ご機嫌よろしゅう、奥さま! 不行届きのことがありましたら、お赦しくださいまし。
(泣く)
アルカージナ (彼女を抱いて)みんな結構でしたよ、結構でしたよ。
ただその、泣くのがいけないわ。
ポリーナ わたくしたちの時は過ぎて行きますもの!
アルカージナ 仕方のないことよ!
ソーリン (コートを着て中折れ帽をかぶり、ステッキを持って左手のドアから登場。
部屋を横ぎりながら)お前、もう時間だよ。
おくれたら事だからな、早い話が。
わたしは行って乗りこんでるよ。
(退場)
メドヴェージェンコ 僕は停車場まで歩いて行きます……お見送りにね。
ひとつ急いで……(退場)
アルカージナ さようなら、皆さん。
……おたがい無事で達者だったら、また夏お目にかかりましょうね。
……(小間使、ヤーコフ、料理人、それぞれ彼女の手にキスする)わたしを忘れないでね。
(料理人に一ルーブリ渡して)この一ルーブリ、三人でお分け。
料理人 どうもありがとうございます、奥さま。
道中ごぶじで! 何かとよくして頂きまして!
ヤーコフ どうぞ、ご息災で!
シャムラーエフ ちょいと一筆お手紙を頂きたいもので! ご機嫌よう、トリゴーリンさん!
アルカージナ どこだろう、コンスタンチンは? わたしは発ちますって、あの子に言っておくれ。
お別れをしなくては。
じゃ皆さん、悪く思わないでね。
(ヤーコフに)コックさん一ルーブリ渡しましたよ。
あれは三人分だからね。
一同右手へ退場。
舞台はがらんとする。
舞台のうらで、見送りによくあるざわめきが聞こえる。
小間使がもどきてきて、テーブルからスモモの籠をとり、ふたたび退場。
トリゴーリン (もどってくる)ステッキを忘れたぞ。
たしかテラスにあるはずだが。
(歩き出して、左手のドアのところで、はいってくるニーナに出会う)ああ、あなたか? われわれはもう発ちます。ニーナ まだお目にかかれるような気が、していましたわ。(大興奮して)トリゴーリンさん、わたしきっぱり決心したんです。もう決まりよ、わたし舞台に立ちます! あしたはもう、ここにはいません。お父さんのもとを出て、ぜんぶをすてて、まったく新しい生活を始めます……わたしもあなたと同じように……モスクワへ発ちますの。あちらでお目にかかりましょうね。
トリゴーリン (ちらっと後ろを振り返って)宿は、「スラヴャンスキイ・バザール」にしなさい……そしてすぐ僕に知らせてくれ……モルチャーノフカの、グロホーリスキイ館だよ……いまはもう急ぐから……(間)
ニーナ あと一分だけ……!
トリゴーリン (小声で)君は、なんてすばらしいんだ……。
コメント