ところがおれは、ふるえがちの光だとか、静かな星のまたたきだとか、しんとした匂やかな空気のなかに消えてゆくピアノの遠音だとか……いや、こいつは堪らん。
(間)そう、おれはだんだんわかりかけてきたが、問題は形式が古いの新しいのということじゃなくて、形式なんか念頭におかずに人間が書く、それなんだ。
魂のなかから自由に流れ出すからこそ書く、ということなんだ。
(デスクに最寄りの窓を、誰かが叩く)なんだろう? (窓を覗く)なんにも見えない。
……(ガラス戸をあけて、庭を見る)誰か石段を駆けおりたな。
(呼びかける)誰だ、そこにいるのは? (出てゆく。
彼がテラスを足早に歩く音がする。
半分間ほどして、ニーナを連れもどってくる)ニーナ! ニーナ!
ニーナは頭を彼の胸におし当て、忍び音にむせび泣く。
トレープレフ (感動して)ニーナ! ニーナ! 君か……君だったのか……。
僕は虫が知らしたのか、朝からずっと、胸がきりきりしてならなかった。
(彼女の帽子と長外套をとってやる)ああ、僕の可愛い、大事なひとが帰ってきた! 泣くのはよそう、泣くのは。
ニーナ 誰かいるわ。
トレープレフ 誰もいやしない。
ニーナ ドアの錠をおろして。
はいってくると困るわ。
トレープレフ 誰も来やしない。
ニーナ 知ってるわ、アルカージナさんが来てること。
だから閉めて……
トレープレフ (右手のドアの鍵をかけ、左手のドアに歩み寄る)ここには錠前がない。
椅子でふさいでおこう。
(ドアの前に肘かけ椅子を据える)さ、もう心配しないで、誰も来ないから。
ニーナ (彼の顔をじっと見つめる)ちょっと、お顔を見させて。
(あたりを見回して)暖かくて、いい気持。
……あのころ、ここは客間だったのね。
わたし、ひどく変ったかしら?
トレープレフ そう……だいぶ痩せて、眼が大きくなったな。
ニーナ、こうして君を見ていると、なんだか不思議な気がする。
どうしてあんなに、僕を寄せつけなかったの? どうして今まで来なかったの? 僕は知ってますよ、君がもう一週間ちかく、この土地にいることは。
……僕は毎日、なんべんも君の宿まで行っては、君の窓の下に立っていた。
乞食みたいにね。
ニーナ あなたがさぞ、わたしを憎んでらっしゃるだろうと、それが怖かったの。
毎晩おなじ夢を見るのよ――それは、あなたがわたしを見ているくせに、わたしとは気がつかないの。
この気持、知ってくだすったらねえ! ここへ着いたその日から、わたしはあすこ……湖のへんを歩いていたの。
お宅の近くにもたびたび来たけれど、はいる勇気がなかったわ。
さ、坐りましょう。
(ふたり腰をおろす)坐って、思いっきり話しましょう。
ここはいいわ、ぽかぽかして、居心地がよくって……。
あの音は……風ね? ツルゲーネフに、こういうところがあるわ、――「こんな晩に、うちの屋根の下にいる人は仕合せだ、暖かい片隅を持つ人は」わたしは、かもめ。
……いいえ、それじゃない。
(額をこする)何を言ってたんだっけ? そう……ツルゲーネフね……「主よ、ねがわくは、すべての寄辺なき漂泊びとを助けたまえ」……いいの、なんでもないの。
(むせび泣く)
トレープレフ ニーナ、君はまた……ニーナ!
ニーナ いいの、これで楽になるわ。
……わたし、もう二年も泣かなかった。昨日の夜遅く、こっそりお庭に入り込んで、あの私たちの劇場が無事かどうか見に行ったの。
あれ、まだちゃんと残っているわね。
それを見たとき、二年ぶりに初めて涙が出たの。
そうしたら胸がすーっと軽くなって、心のなかの霧が晴れたんだ。
ほらね、わたし、もう泣いていないでしょう?
(トレープレフの手をギュッと握りながら)ねえ、こうして、あなたは立派な作家になったのね。
……あなたは作家で、わたしは――女優。
私たちはふたりとも、激しい渦の中に巻き込まれちゃったんだわ。
……あのころのわたしは、子供みたいにはしゃいで毎日を送っていたっけ――朝目がさめると、思わず歌を歌いだしたりして。
あなたに恋をしたり、将来の大きな名声を夢見たりしてさ。
それが今のこの有様はどう? あしたは朝早く、普通の三等列車に乗ってエレーツへ行くのよ……お百姓さんたちと一緒に乗り合い馬車でね。
そうしたらエレーツじゃ、お金持ちでちょっと気取った商人たちが、ちやほやとまとわりついてくるんだろうな。
人生って、本当にむごいものだわ。
トレープレフ いったいどうして、そんなエレーツになんか行くんだい?
ニーナ この一冬分の出演契約を結んだからなの。
もう働かなくちゃいけないのよ。
トレープレフ ニーナ、僕は君を恨んだり憎んだりして、君から届いた手紙も写真もぜんぶ破り捨ててしまった。
それでも、僕の心はいつだって、永遠に君とつながっているんだって、毎分毎秒感じていたんだ。
君への恋が冷めるなんて、僕には絶対にできないことなんだよ、ニーナ。
君を失ってしまい、自分の書いた作品が雑誌にぽつぽつと載りだしてからの僕は、この人生がもう耐えがたいものになってしまった――まさに受難の道だったよ。
……まるで自分の若さが突然むしり取られてしまったみたいで、この世にすでに九十年も生き続けてきたような、そんな気さえするんだ。
僕は狂ったように君の名前を呼んだり、君が歩いた地面にそっと口づけしたりしているんだよ。
どこを向いたって、必ず君の顔が見えるんだ。
僕の人生の一番楽しかった時代を、明るく照らしてくれたあの優しい微笑みがね……。
ニーナ (戸惑ったように)どうしてそんな昔のことを急に言い出すの?
いったいどうして?
トレープレフ 僕はひとりぼっちなんだ。
心を温めてくれる愛情なんて誰からももらえなくて、まるで真っ暗な地下牢みたいに寒いんだよ。
だから何を書いても、みんなカサカサで、コチコチで、陰気くさいものになってしまう。
ニーナ、お願いだ、このままここにいてくれよ!
それが無理なら、僕も一緒に連れて行ってくれ!
(ニーナは手早く、自分の帽子と長外套を身につける)
トレープレフ どうしてそんなことをするんだ、ねえニーナ? お願いだから、頼むから……(彼女が身支度をするのを、じっと見つめる。
しばしの沈黙)
ニーナ 裏木戸のところに、馬車を待たせてあるの。
送らなくていいわ、わたし一人で行けるから……(涙声になって)ねえ、お水を一杯ちょうだい……
トレープレフ (グラスに水を注いで渡しながら)これからいったいどこへ行く気だい?
ニーナ 町へ行くの。
(少し間を置いて)アルカージナさん、いま来ているのよね?
トレープレフ うん。
……今週の木曜日、伯父さんの具合が急に悪くなったから、僕たちが電報で呼び寄せたんだ。
ニーナ 私が歩いた地面にキスしただなんて、どうしてあんな恥ずかしいことを言うの? わたしなんか、今すぐ殺されたって文句は言えない身なのに。
(テーブルにぐったりと頭をうずめる)あぁ、すっかりへとへとだわ! 一息だけでもいいから休みたい、休ませて! (パッと顔を上げて)わたしは――かもめ。
……ううん、そうじゃないわ。
わたしは――女優なの。
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