初級翻訳・へちまの木 第2話

へちまの木

この『沢茂』って店もうまい物を食わせると聞いたから、それでためしに寄ってみたんだ」
「まことに相済みません」と主人は続けざまに頭を下げ、後頭部を掻いた。「こんなしくじりは初めてでして、いつもはお客さまによろこんでいただいているんですが」
「もういい、お勘定をしてくれ」
「いいえとんでもない、お気に召さない物をお出しして、あっしのほうからお詫びをしなくちゃいけません」
「よしてくれ」と男は高い声を出した。「おらあお勘定を踏み倒す気で文句を言ったんじゃあねえぜ。『沢茂』の名を思えばこそだよ」
「まあ親方」と、ふくよかな中年女性が出てきた。この店の女将(主婦)だろう。彼女は小さな紙包みを持っていて、それをすばやく男の着物の袂(たもと)に入れた。「どうか親方、お勘定の心配なんかしないで、いつでもお好きなときにいらしてください。その代わり」と言って、彼女は作り笑いをした。「――瓦版のほうはよろしくお願いいたします」

「親方」と、房二郎が声をかけた。「いや、おまえさんだよ、文華堂の親方、木内桜谷さんとかいったね」
男はぎょっとしたように振り返った。
「沢茂」は日本橋小網町(こあみちょう)にあり、木内という男は暮れかけた街を新堀(しんぼり)のほうへ歩いていた。
道には行き交う人が多く、房二郎の声に振り返る者もいた。
「なんだおめえは」と、木内は窪んだ目で房二郎の全身を見上げ、見下ろした。「――おう、おめえ、沢茂で会ったやつか」
「まあ、歩きましょう」と、房二郎は男の背中に手をかけて言った。「人通りがありますからね」
「何の用だ」
「おつまさんの言うようなことはよしにしましょうや、親方」
「馴れ馴れしいやつだな。一体おめえは誰だ」
「名は房二郎、房って呼んでくれればいい」と、彼は言った。「いまの店でのお芝居は面白かった。たっぷり見せてもらったぜ、親方」
「芝居たあ、何のこった」
「歩こう」と房二郎が言った。「馬喰町とは方角が違うんじゃないかな、親方」
「いちいち親方、親方って言うなよ。なにが言いたいんだ」
「まあそうせき立てなさんな。おらあおめえを他人とは思えなくなった。これからよろしく頼むぜ」
「なにをよろしく頼むんだ」
「とぼけなさんな、いまの沢茂でのセリフさ」房二郎は低く笑った。「瓦版屋で小料理飲み屋の番付を作る、そのために評判のいい店をためしに回ってる、なんざあ泣かせるセリフだぜ。だがなあ親方、刺身が鉄臭いなんていう指摘は、瓦版屋のセリフじゃあねえな。おまえさんはどこか歴とした料理屋の板前だろう」
木内桜谷は笑い出した。
暮れかかる街の、行き交う人たちが振り返って見るほど、大きな笑い声だった。二

「ここが俺の住処(すみか)さ」と木内は言った。「一杯やるかい、若いお兄さん」
「焼酎はお断りだ」房二郎は自分のげっぷの酒臭さに眉をしかめた。「それに酒はもうたくさんだ」
「お前さんはお武家さんかい?」
「そんなことはどっちだっていいじゃねえか。人足(にんそく)だろうと駕籠かきだろうと、人間が人間だってことに変わりはねえさ」
四畳半と六畳の、裏長屋にあるその部屋には、火の入っていない長火鉢と小さな茶箪笥(ちゃだんす)、それから竹行李(たけこうり)が一つあるだけだった。
どれも古道具屋で買ってきたもののようで、長火鉢も茶箪笥もふちが欠けていたり、板にひびが入っていたりして、竹行李は四方の角が破れていた。
「しかし、文華堂(ぶんかどう)で働くとなるとさ」と、木内は湯呑茶碗で焼酎を啜りながら言った。「身元(みもと)だけははっきりしねえと困るからなあ」
「そいつあとんだへちまの木だな」
「へちまがどうしたって?」
「こっちの独り言さ」と房二郎は言った。「姓は池原、名は房二郎、年は二十三歳――池原は千二百石の旗本で、屋敷は芝の桜田小路、俺は三男で別の家に養子に出されそうになったんで家出してきたってところだ。これくらいでいいかい、親方」
「それに嘘がなけりゃあな」と言いかけて、木内は目を丸くした。「千二百石の旗本ですって?」
「俺のじゃあねえ、実家の家禄(かろく)の石高(こくだか)さ」
「だって房さん、千石以上なんて言ったら、すごいお偉方じゃありませんか」
「うちの懐(ふところ)は火の車さ。俺の婿縁組だって、相手の狙いは金目当てよ、へっ」房二郎は肩をすくめた。「俺だって男だ。持参金なんぞを背負って、のこのこ婿になんかいけるかい。そうだろう、木内さん」
「親方」だの「木内さん」だと呼ばれるたびに、桜谷はくすぐったいような、それでいて誇らしいような気持ちになるらしかった。
よく動く目を細めたり、しわの寄った小さな顔をなでたり、口をすぼめたり、体全体で貧乏ゆすりをしたりした。
「もったいないような話だが、気持ちはよくわかりますよ」と木内は言った。「明日すぐに文華堂へ行きましょう。いまちょうど人手不足だし、まず断られるようなことはないと思います。もちろんお前さん、文章のほうはできるだろうね」
木内桜谷は、何か文字を書くような手まねをした。
「よせやい」と房二郎は答えた。「昌平黌(しょうへいこう)じゃあ松室寧斎(まつむろねいさい)のまな弟子だったんだぜ」
「学問と瓦版じゃあ勝手がまったく違うが、まあいいでしょう。文華堂の親父(おやじ)にもまた考えがあるだろうからさ。――ときに、寝床のことだが」
「俺あ、ここでもいいぜ」
「野郎二人じゃうまくいきねえや」木内は手を振った。「一人でもうじがわきそうな部屋なのに、二人じゃ手に負えねえよ。文華堂での仕事が決まったら、俺が手頃な部屋を探してやるよ」
「やっぱりおめえは他人とは思えねえ。頼むぜ、親方」
小銭なら少しばかり持っていると房二郎が言うと、木内桜谷は、今夜ひと晩はここに泊まっていくようにと言った。
馬喰町(ばくろちょう)三丁目の文華堂は、道を挟んだ向こう側に郡代屋敷があり、土手には松林が茂っていて、その土手の囲いの中に池でもあるのか、何羽もの水鳥が鳴き交わす声や、飛び立ったり舞い降りたりする姿が見えた。
――文華堂は土蔵造りの二階建てで、一階では絵草紙(えぞうし)や黄表紙(きびょうし)、人情本、それに駄菓子まで売っており、帳場格子(ちょうばごうし)の中にはいつも、主婦(しゅふ)のおそでがでーんと座っていた。
あとでわかったことだが、売られている絵草紙や人情本などは、みなよそで刷って売れなくなった古い版木を安く買い集め、特に黄表紙や人情本は題名と作者名を変えて、まるで新刊本であるかのように見せかけた本ばかりだった。
――その店は、「おかつ」という二十五歳の女中と、主婦の二人で切り盛りしていた。
おかつは背が高く顔立ちもきれいなほうだったが、ひどい吃音(きつおん)持ちで、暇さえあればおそでに顎で使われ、いつもびくびくしていた。
おそでの歳は三十八、九ほど。大柄な体をしていて、歩くたびに床がみしみしと鳴るほどだった。
そのくせ顔は狐のように細く骨ばっていて、世間の人間はみな敵だとでも言うように、ぎらついた三白眼で油断なくあたりを睨み回し、発する言葉は一言一言にとげがあって、相手の心に突き刺さるようだった。
「この店はあの女狐のものなのさ」と、木内桜谷が房二郎にこっそり囁いた。

コメント

タイトルとURLをコピーしました