初級翻訳・へちまの木 第3話

へちまの木

「前の亭主が米相場をやっていて、死ぬ間際に大儲けしたらしい。その金を狙って、あのちょび髭の男が取り入ってものにし、この文華堂を始めたんだそうだ」
房二郎は言った。
「世の中、物好きな人間もいるもんだな」
「しっ、聞こえるぜ」と木内が制した。
いま風に言えば編集部ということになるのだろうか。
二階の通りに面したほうに、八畳間を二つぶち抜いた広い部屋があり、古い机が五つ並んでいた。一方は記事を書く部屋で、もう一方には絵描きや摺師(すりし)、版木を彫る職人たちが集まっていた。
絵描きの常さん、版木彫りの源さんは、ともに五十歳前後で独身。「この世の中がひっくり返っちまえ」とでも言いたげな渋い顔をしており、どちらも「自分こそは江戸一番の職人だ」という強い自信を体にみなぎらせているように見えた。摺師の松やんは三十歳そこそこで、痩せ型の美男であり、すでに妻と三人の子どもがいるということだった。
彼は腰が低く無口で、人と話すようなことはほとんどなかった。
京橋二丁目にある耕文堂で、子飼いから摺師の腕を仕込まれたが、いまの女房と一緒になる際、耕文堂の主人夫妻と何かトラブルがあり、江戸では表向き、一流の仕事にはつけないような処分を受けたのだそうだった。
記事を書く執筆者は三人いて、木谷桜所、木内桜谷、木原桜水という名前だった。
桜所は品のいい五十代の男で、桜水は背丈が低く肥えており、年は二十五、六といったところだった。彼はいつもにこにこと愛想がよく、女主人のおそでもこの男にだけは、甘ったるいような声で話しかけるようだった。
「あの女狐は平公とできているんだ」と木内が房二郎に耳打ちした。「木原桜水なんて名乗っているが、本当は大工の息子で平次っていうのさ。ときどき女狐のご機嫌をとって、うまく小遣いをせしめているらしい」
「いくらなんでもあんな女に、へえー」と房二郎は言った。「それが本当ならとんだへちまの木だぜ」
そして主人の西川文華は三十四、五歳で、背丈は五尺そこそこで痩せこけており、落ち着きがなく、鼻の下にちょび髭を生やしていた。
いつもちょこちょこと動き回っている様子も、小さな目鼻立ちも、そのキーキー声やちょび髭まで、まるで鼠そっくりに見えた。
「せやさかい」というのが口癖であり、江戸弁は荒っぽいから商売には上方訛りに限る、というのが彼の持論だった。
「そないに勘定や勘定やと云われてもな」と、いつか版木屋が代金の取り立てに来たとき、彼がキーキー声で言うのを房二郎は聞いた。「――こっちゃもしょうばいやよってに、あんじょう儲からんことには払えやしまへんがな」
記事を書く部屋は北向きで薄暗く、湿っぽく、九月に入るとすでに隙間風が寒かった。
瓦版はたいてい一枚刷りだったが、ときには三枚綴じや五枚綴じのこともあった。
綴じ枚数が多いときは小説風の仕立ての記事で、赤絵を使った、あっと驚くような内容のものが多かった。
――売り子は香具師の若い者で、常連になっているのが七人いた。一枚売ればいくらという歩合制だったが、記事のネタを持ってくれば相当な手間賃になるらしく、彼らのほかにも、火事や落雷、心中、喧嘩などの速報記事を持ち込む者が何人かいた。
房二郎は小舟町に部屋を借りた。
木内桜谷が探してくれたもので、女一人の後家暮らしだが、仕立て物を教えており、二十人近い娘たちが毎日通って来こる家だった。
女主人のおるいは体こそ小柄だが、ちょっと珍しいほどの美貌で、面長な顔立ちと体つきのバランスが良いため、すらっとして背が高く見えた。
木内桜谷は自分で世話をしておきながら、おるいの美貌に気づかなかったのか、半月ほど経つと、しきりに房二郎をからかい始めた。
「房やん、もうあの後家さんとできたんじゃあねえのか」
「なんだい、その後家さんてえのは」
「小舟町のおるいさんよ、白々しくぼっくれたってだめだぜ」
房二郎はくすっと笑った。「初めて聞く名だが、おれが部屋を借りてる、うちのばあさんのことかい」
「ばあさんだって?」
「よくは知らねえが、もう三十四、五にはなるんだろう。おれにゃあ母親みたいなもんだ」
文華堂の隣り町、馬喰町二丁目の横丁に「とんび」という小さな店がある。
五十くらいの夫婦だけで営んでおり、店構えも道具類も庶民的で、おつまみも三品より多くは作れないのだったが、酒だけは新川から直接仕入れているそうで、それを自慢にしていた。
その店を見つけたのは房二郎で、仕事の帰りには一日おきくらいのペースで、木内を誘って飲みに寄った。「おふくろかあ」
桜谷は酒をすすりながら、なんだかつまらなそうな顔をした。
「そんな話を聞くと、自分の年まで思い出して気がめいるよ」
「そんなことよりさ」
と、房二郎が話を続けた。
「あの木谷桜所と木内桜水の二人はいったい何者なんだい? 木内さんとおれは、朝から晩までずっと薄暗い部屋に缶詰めになって、あることないこと書きまくっているというのに、あの二人は好きなときにフラッと現れて、短い記事をポンと放り出したら、勝手にさっさと帰っちまう。あれはいったいどういうことなんだい、木内さん」
「あの二人はかけもちなのさ」
木内はそう言って説明した。
「いくつかの瓦版屋を掛け持ちしていて、高く買ってくれる店と安く買い叩く店をうまく使い分けてるんだよ。うちの文華堂に持って来るのは安いほうの口さ。まあその代わり、おれたちは外を歩き回らなくて済むっていうわけさ」
「だって、売り子が自分ですごい記事のネタを持って来るじゃないか」
「記事の集め方が違うんだよ」
木内は笑って言った。
「房やんが今日書いた、深川の親子心中だって――まあいいさ、そのうち分かるようになるよ」

三

「そうだろうさ」
房二郎はすっかりやけになったような口調で言った。
「人間、年を取ればいろんなことがわかってくるもんさ。そして分かるにつれて、この世の中がいかにイヤらしいか、人間がいかに情けない生き物かってことが、はっきり見えてくるばかりだ」
「生きていくってのは、冗談じゃすまないからな」
「まったくその通りだ」
房二郎はそう言うと、空っぽになった熱燗の徳利を持ち上げて振ってみせた。
「おやじ、酒のお代わりだ!」
「ダメです」
とんびの主人はかたくなに言い返した。
「うちの酒は、じっくり味うためのもんだ。酔っぱらうためにガブガブ飲ませる店じゃねえんだよ」
カウンターの周りにはほかに二人、店員らしき中年の男が、この店の女将さんの酌でひっそりと飲んでいた。
房二郎は、あいさつもない無愛想な主人の言葉にカッときた。
一応は客商売をしているというのに、客を突き放すような物言いはないだろうと思ったが、ほかの二人の客の手前もあり、しかたなくおとなしく頭を下げた。
「これももっともだな」
房二郎は苦笑しながら言った。
「じゃあ、お勘定にしようか」

(中略・場面転換)

房二郎はハッと目を覚まし、丸い枕から慌てて頭をもたげた。
暗い行燈(あんどん)のほのかな光の中で、自分のすぐ隣に女が寝ていて、その裸の足や手が自分の体にしっかりと絡みついているのに気づいたのだ。
「おい、起きてくれ!」
彼は女の肩をゆすぶった。

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