まわりの神経は極限まで張り詰めているように見えるのに、不思議と実際の動きはどこかスローモーションで、ぎこちなく感じられます。
ところが、いざ自分が槍を構え直してその場に入ってみると、のんびりしているどころではありません。声をかける隙すらないほど、誰も彼もが目の前の敵に自分の全身をぶつけていたのです。人間の五感のほかに、もし「六感」というものがあるなら――いや、七感でも八感でもいい、ありとあらゆる感覚をすべて注ぎ込み、「相手を倒す」という一点だけにすべてが集中していました。
「みんな、とっても忙しそうだな」
孫七郎はあたりを見回しながら、のんきにつぶやきました。
「まるで手の空いているやつなんてひとりもいないじゃないか……あ、あそこにひとりいるぞ。いや、あれもちゃんと相手がいるか」
本当に、孫七郎の相手をする者は誰もいませんでした。四方八方いたるところで激しい戦いが繰り広げられているというのに、不思議と誰も孫七郎に注意を向けてくれないのです。
矢入れの桜が敵の目によく映るように、体の角度をいろいろ工夫しながら進んでいったのですが、どうしても「おれとかかれよ!」と名乗りを上げて向かってくる相手がいません。これではせっかくの合戦が全然成り立たないではないか。孫七郎はほとほと困ってしまい、ついに思いきって大声で叫んでみました。
「やあやあ――!」と、精一杯の大きな声を出してみます。「やあやあ……!」
6
合戦はまさに最高潮に盛り上がっていました。そんな中で、「やあやあ」などという呑気な呼びかけが誰の耳に届く道理もありません。
もともと戦場の空気というものは、一本の大きな流れのようなものでできています。気が緩むときは全員が同じように緩み、緊迫するときは戦場全体を貫く共通の「反射神経」のようなものに支配されるのです。
たとえば、敵と味方がばったり顔を合わせたその一瞬、お互いの目をギロッと見合わせ、「応!」と息がぴったり合ったときにはじめて本当の戦いが始まります。戦いたいという「心と心」がカチッと噛み合うところに、勝負の火ぶたが切って落とされるわけです。
ところが、孫七郎にはそれがありませんでした。戦場全体を貫くような「闘うエネルギーの流れ」が、彼のなかにはまったく通っていなかったのです。
それはまるで、アツアツの油の中に冷たい水を一滴ポチャンと落としたかのように、どうにも周囲の空気と混ざり合わない。彼は前日、「合戦のノリがわからない」と言いましたが、つまりはその「気流」や「空気感」にどうしても乗ることができないのです。いわば、この戦場に迷い込んでしまった異分子のようなものでした。
「やあやあ……」
孫七郎は困り果てて、どうしていいかわからないまま、ぼんやりと歩き続けました。
「こりゃあ参ったな。やあやあ……、やあやあ……」
そのうち誰か相手が見つかるだろう。誰かひとりくらいは向かってくるに違いない。そう思いながら、矢入れに挿した花がよく目立つように、ずっかずっかと歩いていきました。
そうやって、いつの間にか激しい白兵戦のただなかを通り抜け、やがて彼は敵の城門の目の前までたどり着いてしまったのでした。冗談じゃない、そんなばかなことがあるか――。そう思ってあたりをよーく見まわしてみましたが、どう見てもそこは敵の大きなお城の門の前でした。
「こりゃあ、えらいことになっちまったぞ……」
孫七は思わずそうつぶやいて、どうすればいいのか途方に暮れました。
なんだかすごく失礼で、とんでもない失敗をしてしまったような気持になって、彼は顔を真っ赤にして恥ずかしがりながら、困り果てて大きなため息をつきました。そして、「もう引き返そう!」とクルリと後ろを向きかけたそのときです。合戦場のほうから、敵の兵士たちがばらばらと崩れるように走って逃げてきました。
孫七は左右をパッと見ました。まわりに味方の姿はひとりもいません。自分ひとりでぽつんと立っています。これなら誰かに手柄を横取りされる心配はまったくありません。つまり、いま向こうから崩れて逃げてくる敵は、ぜーんぶ自分ひとりのものです! そう思った瞬間、孫七の体じゅうがウズウズとワクワクしてきました。
彼は敵の城門を背にして、どっしりと力強く立ちました。そして、長い槍を天高くつきあげながら、力いっぱいに叫びました。
「やあやあ、これなるは! 榊原小平太康政さまの家来、柿ノ木孫七郎正吉(かきのきまごしちろうまさよし)なり! われこそはと思う者は、かかってこい!」
ものすごく大きな声でそこまで叫んだ瞬間、事態は一変しました。
逃げてきた敵の兵士たちと、それをうしろから追いかけてきた徳川軍の先頭の兵士たちが、孫七の声を聞きつけたのです。そして、城門の前にビシッと槍をかかげて立っている孫七の姿を見つけました。
味方の兵士たちは「おおっ、孫七が一番乗りをしたぞ!」と大喜びで叫び合い、敵の兵士たちは「もうお城を乗っ取られたぞ!」とパニックになってしまいました。そのため、敵兵たちは城の中へは入らず、そのままあちこちへ散り散りになって逃げ出してしまったのです。
一方、味方の兵士たちは、そんな逃げる敵のことなどもう無視して、「城を乗っ取れ!」「城へ行け、城へ!」と、すごい勢いの大波のように城門へとまっしぐらに押し寄せてきました。
「……われこそはと思う者は――」
そう言いかけたまま、まるで棒のように固まって突っ立っていた孫七は、ドッと押し寄せてきた味方の兵士たちの群の中に、そのまま巻き込まれて飲み込まれてしまいました。
天方城(あまかたじょう)はそのとき、裏口にあたる搦手(からめて)の方もすでに破られていました。
攻め込む側がいろんな方向から挟み撃ちにした作戦がみごとに大成功したのとは反対に、城のリーダーだった久野弾正(くのだんじょう)は、お城の守りが堅いことばかりを頼りにしすぎて、命令をすっかり間違えてしまいました。負けた兵士たちはバラバラに逃げるだけで、もう一度軍勢を立て直すチャンスをすっかり逃してしまったのです。
「こりゃあもうダメだ!」と思ったのでしょうか、正面の城門が破られるよりもずっと前に、城のリーダーである久野弾正宗政(くのだんじょうむねまさ)は、さっさと城から逃げ出してしまいました。
そうなればもう、戦いは決まりです。敵の残された兵士たちも、リーダーの後を追うようにみんなで一斉に逃げ出し、天方城は戦いが始まってからわずか二日目で陥落(かんらく)したのでした。
石原寸度右衛門(いしはらすんどえもん)は、お城の本丸の土塁(どるい)のところで、やっと孫七を見つけ出しました。
孫七郎は、石の上にちょこんと腰をかけて、ものすごく恥ずかしそうに顔を真っ赤にしていました。それもそのはず、ちょうどいま軍目付(ぐんめつけ:手柄をチェックする役人)がやって来て、彼が一番乗りをしたというすごい功績を、公式の記録帳に書いていったばかりだったからです。
孫七は「いや、あのですね……」と、本当のことを一生懸命説明しようとしましたが、まわりの人は誰もその話を聞いてくれません。
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