初級翻訳・へちまの木 第4話

へちまの木

「ここは一体どこだ!? お前は誰なんだ!?」
女は房二郎にしがみつき、その胸に顔をすり寄せながら、小さな声でこうささやいた。
「お願い、そのまま寝てちょうだい……。あたし、すぐに向こうへ行くから……」
そう付け加えると、彼はまたそのまま眠り込んでしまった。
そして次の日の朝。
文華堂の記事部屋で、房二郎は青白い顔をしながら、やたらに水をガブ飲みしていた。
「昨夜は飲みすぎたのかい?」
木内桜谷がニヤニヤしながら声をかけてきた。
「房やんは、そんなに酒が強くないんだな」
「ゆうべはどのくらい飲んだんだっけ……?」
「おれの知る限りじゃ、二合とちょっとだったな。そのあとは知らないけどさ」
「ううむ……」
房二郎はうめき声をあげた。
「いったい、どこで別れたんだっけ?」
「お前さんは本当に無茶苦茶なんだから」
木内は手を休めず、せっせと筆を動かしながら言った。
「一杯飲むとすぐに『別のところへ行こう!』ってきかなくなるんだ。五軒か六軒はハシゴしたかな。こっちが疲れ果てて、小網町(こあみちょう)でようやく別れたんだよ」
房二郎はぎょっとしたように振り返った。
「小網町だって!? まさか、あの『沢茂(さわしげ)』じゃないだろうな……!」
「そう、まさにその沢茂さ」
「冗談じゃないぜ!」
「どうしても行くってきかなくてさ。『今度はおれが刺身の鮮度を試してやるんだ!』なんて息巻いてたぜ」
「冗談じゃない、総毛立つよ!」
房二郎は首をすくめた。
「それで、本当に刺身を食ったのか?」
「いや、何も食べやしなかったよ」
木内はまたニヤリと笑った。
「五品くらい注文したかな? でも、みんなお箸でツンツン突っつくだけで、あとはなんか文句ばかり言ってたみたいだぜ」
「ぞっとするね、ひでえもんだ……。おれは本当は酒なんてダメなんだ。結婚の縁談が持ち上がったとき、やけくそになって飲み始めただけでさ、盃で五杯も飲めばぶっ倒れる口なんだよ」
そう言いながら、房二郎は探るような目で木内を見た。
「それで、ゆうべ別れるとき、おれはまっすぐ小舟町(こふなちょう)の家へ帰る様子だったかい?」
「さあどうだったかなあ。おれも酔っ払っていたから、あまり覚えてないや」
そのとき、廊下の向こうにある裏座敷から、キャーッという主婦の叫び声が聞こえてきた。
そこは主人夫妻が寝起きする八畳間だった。
主婦のおそでがそんな声を上げるときは、決まって嫉妬による夫婦喧嘩であり、主人の西川文華(にしかわ ぶんか)が慌ててこちらの記事部屋へ逃げ込んでくるのがお決まりのパターンだった。
体力でも腕力でも、そして口げんかの勢いでも、文華は到底あの強気な女房には太刀打ちできなかったからである。「文華はね、房やん」と、木内は小声で言った。「あのちょび髭面で、あの強欲な女狐を丸め込んだのさ。もちろん目当ては金さ。――だけど、そのちょび髭なんてのは女狐を誘い出すだけの役目で、いざとなれば女狐ががっちり財布の紐を握ったままなんだ。いまみたいに喧嘩が始まってみろ、何の役にも立たない、あわれなちょび髭さね」
「記事はまだかね」と、隣の部屋から彫り師の源さんが声を飛ばした。「こっちは手が空いて待ってるんだぜ」
「新しいのはまだないねえ」と、木内は大きな声で言い返した。「昨日の深川の心中事件のやつを、もう一回刷り増ししてもらおうか」
「なんだい、あんな薄汚いあまの口車に騙されやがって!」裏の八畳間から、おそでの怒鳴り声と、まるで頬でも叩くような激しい音が響いてきた。「あたしの財布からコソコソくすねていった二分(にぶ)の金も、あのクソあまに貢いだんだろ! すぐに返しな、今すぐここで返しやがれ、このとんまのバカ野郎、ひょっとこのおたんこなすめ!」
 またしてもパチンと頬を叩くような音と、どうにかしてなだめようとする文華の、低くやさしい声が聞こえてきた。
「さてと、そろそろこのあたりで、話を膨らませるフレーズを入れるとするかね」木内桜谷は手を休めずに筆を走らせながら言った。「――うんすん歌留多だ、うんすん歌留多だ」
 彼は本当によく書いた。
机の脇に一升徳利をドンと置き、冷やのまま湯呑みに注いではチュウチュウとすすり、朝から夕方まで、ひとりでボソボソとつぶやいたりニヤニヤしたりしながら、とにかく書きに書きまくった。
文華堂でいう「早記事」、いまでいう速報のようなものはもちろん、芝居のウワサ話や、人気役者と女性たちのスキャンダルなど、言うまでもなく中身は全部デタラメの作り話であり、その内容は思いきり下品で、表現はそのままエロ本と言っていいような代物だった。
「またうんすん歌留多かい」ときどき彫り師の源さんがあきれたように言った。「こんなお決まりのパターンばかりじゃ、面白くもおかしくもないぜ。木内さんも、たまには一風変わった女とでも寝てみたらどうだい」
「源さんとは歳が違うからなあ」木内は顔をぐしゃぐしゃに歪めながら、口だけは負けじと言い返した。「――まぁそのうち勉強させてもらうつもりだけどさ、そんな面白い女がいるなら教えてほしいもんだね」
「おいらは三十五の年から女はきっぱり断ってるんだ」と、源さんは版木を彫りながら言った。「だがね、女って生き物は、一人として同じやつはいなかった。顔かたちはもちろん、夜の好みだって、体の具合だって、声の出し方だって、みんなそれぞれ全く違うんだ。お前さんの書く記事なんてのは、ただの人真似ばかりで、生きた女の匂いが一人もしやしない。これじゃあ、いくら安物のエロ瓦版だって売やしないぜ」
「三十五から女を断ったって、いったいどうしてさ、源さん」木内は筆を動かしながら、それとなく話題を変えた。「なんだか面白いいわくがありそうじゃないか」
「弁慶だって一回きりで女を断ったって話を聞いたことねえか」
「おいらは源さんの話を聞いてるんだよ」
「自分の昔の懺悔話なんてするほど、まだボケちゃあいねえよ」
 裏座敷での大喧嘩はようやく静まったらしく、おそでの鼻にかかった、ねっとりとした甘ったるいような呻き声が、とぎれとぎれに聞こえてきた。
しばらくすると、木谷桜所がひょっこり現れ、上品な物腰と声で、一綴りの記事を木内桜谷に手渡すと、「きっといい瓦版になりますよ」と言い残し、いかにも上品なしぐさで去っていった。
――ゆうべは一体、どこで泊まったんだろうか。
房二郎は頭を抱えて悩んでいた。
あの女はいったい誰だったんだ? 小網町の「沢茂」で木内と別れたとしたら、吉原なんて行ったこともないし、そもそも女と寝るような場所になんて近づいたこともないはずなのに。
女中のおかつが昼ごはんを知らせに来たとき、房二郎は「よかったらお前が食べてくれ、俺は何もいらないから」と言った。
絵描きの常さんも、彫り師の源さんも、摺師の松やんも、そして木内桜谷まで、みんな自分でお弁当を持って通ってくるというのに、房二郎だけは近所のお弁当屋から取り寄せていたのだ。
「ほんとですか?」と、女中のおかつは顔を真っ赤にして吃りながら聞き返し、本当に食べていいと分かると、顔中をクシャクシャにして嬉しそうに微笑み、「ありがとうございます」と、何度も吃りながら頭を下げた。

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