二階の記事部屋に上がると、木内桜谷が頭に手ぬぐいをきゅっと結び、机に向かって、相変わらず酒を飲み飲み、勢いよく筆を走らせていた。
房二郎は自分の机の前に座ると、財布を出して中を調べてみた。
家を出るときにおるいが、「少し入れておいたからね」と言って持たせてくれたものだ。
ついさっき段平に割り勘分を少し渡したとき、財布の中に結構な額が入っているような気がしたので改めて確認すると、一分銀が三枚、二朱が二つ、それに銭が三十文あった。
――もしや、段平にやったのが二朱だとしたら、残りはおよそ一両になるか。
財布をしまいながら、房二郎は顔をしかめた。
部屋の家賃だって溜まっているし、こんな大金をもらう筋合いは一切ない。
すぐに返さなければいけないのに、すでに手をつけてしまったからこのままでは返せないし、当分あてにする見込みもない。
房二郎はすっかり気が重くなった。
――それに、昨日の夜の女だ。いつかの夜と同じ女だと思うが、いったいあれはどこの誰の、どんな女なんだろう。
いっそ段平に思い切って聞いてみようかとも思ったが、どうにも恥ずかしさとためらいがあって口には出せなかった。
桜田小路の実家を出さえすれば、それだけで本当の自分の人生、生きた生活に飛び込めると思っていた。
しかしここまで来てみると、世間は彼を拒絶し、まるで押し戻そうとしているようにしか感じられない。
何もかもがちぐはぐで、不合理で、いやらしくて不潔な面ばかりを彼に見せつけてくる。
三男坊だから窮屈で不自由な生活だと思っていたけれど、千二百石取りの旗本として育った繊細な神経には、文華堂のような底の浅いたくらみで回っている店や、町人暮らしのなかで触れる何もかもが、やりきれないほどの抵抗感として迫ってくるのだった。
「さあ、値上げだ!」
突然、記事を書き殴りながら木内が叫びだした。
「月手当の値上げだ、さあさあ値上げだ、値上げだ!」
「こっちだって値上げだ!」
隣の八畳間から、彫り師の源さんの声が響いてきた。
「店なんて他にもいくらでもあるんだ! こんな安い手当で仕事ができるか、もうまっぴらごめんだ!」
そのやり取りを聞いて、木内桜谷がニヤリと笑い、肩をすくめるのを、房二郎はぼんやりと見ていた。「そうだ値上げだ」と、隣の八畳間から、今度は絵師の常さんの声が聞こえた。「子ども向けの絵本を描いたって、もう少しマシなお金になりらあね」
摺師の松やんは何も言わず、何かを刷っている馬連(ばれん)の、きゅっきゅっという音だけが、休みなしに響いていた。
そこへ木原桜水が入ってきて、皮肉な笑みを浮かべながら「だいぶ賑やかですね」と言い、記事のネタが書かれた紙を木内桜谷の机の上に置いた。
「辻斬りと、子供が大八車にひき殺された話です」と木原は言った。「辻斬りは浅草の二天門外、子供がひき殺されたのは神田の鍛冶町で、子供は三歳の女の子だったそうです」
「たまにはクズネタじゃない、まともなネタを持ってこいよ」木内は筆を止めることなく言った。「そんな記事じゃあ、いくら売り子が声を張り上げても、瓦版は売れやしないぜ」
「それを売れるように書くのが、木内さんの腕なんじゃないですかね」と木原はニヤニヤしながら言った。「この夏の新吉原の女郎の心中話は、すごくよく売れたそうじゃないですか。二人とも死んだことになっているのに、女郎の方はまだぴんぴんしているし、あの瓦版のおかげで店はたいそう繁盛しているそうですからね」
「よしてくれ」と木内桜谷は言った。「そんな話は聞きたくもないや」
「筆の力ですよ」木原は軽薄に笑った。「木内さんが書けば、どんなクズネタでも売れること間違いなしだ。しっかり頼みますよ」
そしてへらへらと笑いながら、木原桜水は部屋を出ていった。
「とんでもない野郎だ」と木内は書き続けながら言った。「いいネタは金になる方へ持って行き、安いクズネタはこっちへ押し付けやがる。それなのに、実際に文章を書く俺なんかより、ずっと多くあのちょび髭(店主)から給料をもらってるんだからな――って、なにが可笑しいんだよ」
房二郎は手を振って、「いや、そうじゃないんだ。その話じゃないんだ」と言った。「さっき桜水が神田の鍛冶町と言ったときに、初めてお前に会ったときのことを思い出したんだよ」
「沢茂(さわしげ)のことかい?」
「刺身の切れ端のことじゃねえよ」と房二郎はまた忍び笑いをしながら言った。「あのとき、俺たちの脇に二人の客がいただろ? その一人がさ、子供が寝小便をしたもんだから、こらしめるためにその濡れた布団を背負わせて、『町内を三周してこい』って外へ追い出したんだよ」
「俺にも覚えがあるぜ」
「ところがさ、――その男の家は亀戸のほうらしいんだが、子供は布団を背負ったまま、遠く神田の多町(たちょう)まで歩いていっちまったって言うんだ」
「子供のことだからな」と木内は手を動かしながら言った。「行きたいところへ行っちまうのさ」
そのあと、町内が迷子捜しですごい大騒ぎになったんだ、と言おうとして、房二郎は急に口をつぐんだ。
――お前はどうなんだ、という声が聞こえた気がしたからだ。
芝の屋敷を飛び出して、こんなちっぽけで、三文にもならない仕事をしている、お前自身が迷子なんじゃないのか?
――人間なんて、みんな迷子だ。
木内桜谷は芝居の座付き作者になろうとしたが、今は瓦版のやっつけ記事などを書いて、どうにか食いつないでいる。
世間を欺き、人を騙すような仕事をしながら、女房にガミガミ言われ通しで、すっかり首をすくめているあのちょび髭も、源さん、常さん、松やんも、それに飲み屋で会った名前も知らない、顔もよく覚えていない男たちも、よく考えてみるとみんな迷子みたいなものだった。
――突き詰めて考えてみると、人間っていうのはみんな、自分の行くべき道を捜して、一生迷い歩く迷子なんじゃないだろうか。
房二郎はますます気が重くなり、迷子のまま一生を終えてしまったような、親族たちの顔を次々と思い出して、深く長い溜息をついた。
「どうしたんだよ」と木内が声をかけた。「また二日酔いか?」
「まあ、そんなところだ。……木内さんとは、あのあとどこまで一緒だったっけ?」
「両国広小路の横丁だったな」木内はやはり手を止めずに言った。「お前さんは段平と久兵衛に取り囲まれていたから、そのあとどうしたのか俺は知らないよ。何かあったのかい?」
房二郎は答えず、また深い溜息をついた。
六
十二月に入り、雪が降るある朝のこと。房二郎はいつもより三十分(半刻)も早く、文華堂へ出かけた。
子供の頃から彼は、雪が降るのを見るとじっとしていられず、すぐに家を飛び出して友達を誘いに行ったり、友達がいなければ一人で赤坂の溜池や、馬場、山王の森などを歩き回るのが常だった。
しかし、下町の雪は積もるそばから掻き集められてドブ川へ捨てられてしまい、狭い空地に残っているものも汚く汚れていて、彼が少年の頃に知っていた美しい雪景色とは、まるで様子が違っていた。
――赤坂のあたりなら、今でもきれいな雪景色だろうな。
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