初級翻訳・ゆうれい貸屋 第9話

ゆうれい貸屋

 元・紙くず拾いの幽霊が言った言葉が、なんだか弥六の頭にひっかかっていたのです。

「死んじまえばおしまいだ。何事も生きているうちが勝負、そうかもしれないなあ」

「何をそんなに感心してるのよぉ、この人は」
 突然そう言って、あの浮気な娘の幽霊が現れました。
 ぽっちゃりした丸顔で、肌の色こそ幽霊らしく青白いけれど、片方の目が少し横を向いていて、おちょぼ口で、なんだか色っぽい雰囲気が全身からあふれている幽霊でした。「どうしたんだ、もう済ませて来たのか」
「そんなことどうでもいいじゃないの、それよりねえ、あなた」
「おい、変な声を出すなよ。それにそんなに近くに寄ってくるな、もっと向こうへ行ってくれ」
「いいじゃないの、まったくこの人は」と、その娘の幽霊は弥六にしがみつきました。「あなた、お染さんが怖いんでしょ? 知ってるわよ、意気地なしねえ。男のくせにあんなおばあちゃんみたいな人に尻に敷かれて、浮気もできないなんて恥ずかし気もなくって、この人は」
「うう、離してくれ、頼むから、そ、その手を」弥六は必死にもがきました。「頼むから離してくれよ。もしあいつが帰ってきて、これを見つかったら……」
「とり殺されるってんでしょ? いいじゃないのさ、とり殺されたらされたで、あんな人と別れて、あたしと夫婦になりましょうよ!」
「人のことだと思って、いい加減にしてくれよ。おらはまだ死にたくねえんだ、頼むから勘弁してくれ!」
「大丈夫よ、あの人は朝まで帰ってやしないんだからさ。ねえ、そんなに薄情にしないで、ぎゅっと抱きしめてよ。あの人がどんな女だか知らないけど、あたしのは万人に一人の特注品なんだからさ。さあ、おとなしくして、これをこう……ねえ?」
「ひひひ、やめてくれ、ふふふ、くすぐったい、へへへへ、ちょっと待ってくれよ」
身もだえしながら、もつれ合っているその二人の目の前に、なんと、当のお染その人がおそろしい姿でおそるおそる現れました。
「あっ、お染、お、おめえ……!」
弥六はぎょっとして叫びました。
浮気娘の幽霊はよっぽど驚いたとみえて、青く一瞬ピカッと光ったかと思うと、
「お姉さん、味見をさせてもらったわよ」と、あてつけのようなセリフを吐いて、スッと消えてしまいました。

八 元におさまる般若心経

「おまえさん、とうとうやったねえ」
お染さんは、静かで、それでいて骨まで凍るような声で、弥六の顔をじっと覗き込みながら言いました。
「あたしは見ただよ、この目でね、しかと見たよ」
「ち、ち、違う、違うんだ! と、とんでもねえ、あれはでたらめだ、嘘っぱちだ!」
「あたしのことを、おばあさんだの、おまえを尻に敷いているだの、とり殺されたらあの娘と夫婦になるだのって……おーまーえーさーあーいーいー!」
「た、た、頼むから! あれは、あいつが勝手に……!」
「あれがねえ、あれがおまえに抱きついて、手足を絡ませて、そう言ってたーねーえー!」
そしてお染という女は、まるでおそろしい鬼のように背中を伸ばし、髪を逆立て、歯を剥き出しにして、うす気味悪く笑いました。
「あーらうれしや、これで怨みを晴らす相手ができたぞ! とり殺す相手ができたぞ! うれしや、うれしや……。これよりは九百九十九夜、夜な夜な枕元へ現れて、地獄の苦しみを味あわせて、うーらーみ……はーらーさーでえ……おーくーべーきい……かーっ、あーらうらめしやな……!」
「助けてくれ! この通りだ!」
弥六は床にひれ伏し、頭を床にこすりつけながら叫びました。
「おらは死にたくねえ、助けてくれ! 死ぬのは嫌だ、勘弁してくれ、人殺しーっ!」
「弥六、どうしたんだ、弥六! しっかりしろ!」
背中をドシンと強く叩かれました。
弥六は悲鳴をあげて飛び上がり、誰かの頭とコツンとぶつかりました。目からチカチカと光が飛び散り、さらに背中をめちゃくちゃに殴られました。
「こんな時間までぐっすり寝こんで、なにをうなされてやがるんだ! ふざけるんじゃないよ、目を覚ませ、いったいどうしちまったんだ、弥六!」
「はァ……! はァ……!」
弥六はぽかんと間抜け面で振り返りました。
家主の平作がそこに立っていました。戸が開け放たれていて、外には夏の明るい日差しがいっぱいに満ちあふれていました。
弥六は「ああ、大家さん……大家さんだ!」と叫ぶと、いきなり飛び起きて仏壇を開け、口の中で早口の念仏のようなことをぶつぶつ言いながら、震える手で古いロウソクに火をつけ、折れ線香を立て、そしてチンチチンと鉦(かね)を鳴らしはじめました。その手際の早さと、あまりの慌てふためきよう、そしてこの怪しげな行動を見た平作の老人は、こいつは頭がおかしくなってしまったに違いないと思い、腰を上げて逃げ出そうとしました。
それを弥六がすごい勢いで飛びついて引き止めました。
「大家さん、お願いだ! どうかお経を読んでくんなさい! 般若経を、一度でいいから! あっしを助けると思って!」
「読めって言うなら読むが……しかし、急にどうしたってんだい?」
「目が覚めました!」弥六は泣き出しました。「こっちの目も、あっちの目も、ぜーんぶ目が覚めました! へい、これから働きます、仕事をします!」
「おめえ、それ本気で言ってるのか? まだ寝ぼけてるんじゃないのかい?」
「本気にならなきゃ、本当にとり殺されちまうんです! いや、心底本気です。これから腕の力がちぎれるほど働き、お兼も呼び戻して、まじめに精いっぱい稼ぎます! ですから、どうか早くお経を……!」
「それが本心ならめでてえこっちゃが、なんでまたそのために経を読むんだい?」
「それはお染……いや、まあ、それは、おやじにも、おふくろにも、『ちゃんと反省してまじめにやってるぞ』ってところを見せて、安心してあの世へ行ってもらいてえんです……!」
「よく言った! そいつは本物だね」
家主の平作は、感心したようにポンと手を打ったのでした。「亡くなったお父さんとお母さんに安心して見てもらうなんて、冗談なんかじゃない! 弥六、おまえ、よくそこに気がついてくれたなぁ、おらあうれしいぜ!」
「あっしのほうが、何倍もうれしいですよ!」
「これで、お前の親父さんもおふくろさんも、きっと成仏できる。
お兼さんにもすぐに知らせてやろう。お兼さんがどれだけ喜ぶか……きっと泣きながら飛んで来るぞ、うれし涙を流しながらな!」
平作のおじいさんは、うるっときた目をゴシゴシとこすりました。「いいか弥六、今度は絶対に道を外すんじゃないぞ、お兼さんを大事にするんだぞ、いいか! よし、お経を読んでやる、読んでやるとも! わしの一世一代の大仕事だ、この世の果てまで響きわたるくらい、めちゃくちゃ立派に読んでやるからな!」
家主の平作のおじいさんは、仏壇の前にドスンと座り、もう一度かねをカーンと鳴らすと、やがて落ち着いた声で、静かに般若心経(はんにゃしんぎょう)を唱え始めました。
「これで成仏してくれよ、お染……」弥六も手を合わせながら、心の中でそうつぶやきました。

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