……最初は、自分の耳が信じられなかったくらいでしたから」
キャラコさんは、自分の歌を人から褒められたことなど一度もなかったので、顔を真っ赤にしました。
「おやおや、そんなに褒められたら困っちゃうな」
『恋人』は強くうなずいて、
「いいえ、本当のことです。
実際、あなたはめずらしい素晴らしい声を持っていらっしゃる」
「じゃあ、歌うわね!
その、見事な『中音』で! ……でも、あたしの知っている歌でなくては困っちゃうわよ。
……どんな歌がいいの? ごく新しい流行りの歌?」
「いや、わたくしはモダンなタイプの歌は嫌いです。
……もしやあなたは、小学唱歌の『冬の円居(まどい)』という歌をご存じでしょうか」
長六閣下が知っている唱歌といえば『冬の円居』と『黄海の海戦』のたった二つだけだったので、キャラコさんは子守歌の代わりに『冬の円居』を聴いて育ったようなものだったのです。
「ええ、知っているわよ!」
『恋人』は目をパッと輝かせました。
「やっぱり! ……あなたならきっと知っているだろうと思った。
……それでは、どうか歌って聴かせてください」
キャラコさんは『恋人』の手を引いてピアノのそばへ座らせると、自分で伴奏を弾きながら、美しい声で『冬の円居』を歌い始めました。
『恋人』は両手で顔を覆って熱心に聴き入っていましたが、キャラコさんが歌い終えると、顔を上げて低い声でポツリとつぶやきました。
「なつかしい歌だ……!」
しなびた頬にふっと血の色がさし、まるで若い青年のような生き生きとした顔つきになっていました。
『恋人』は、丁寧に頭を下げて言いました。
「これで十分満足です。
どうもありがとう。
……もうあなたのご勉強の邪魔をするのはやめておきます。
……それはそうと、あなたはまだずっとこのホテルにいらっしゃるのですか?」
キャラコさんは、あわてて首を振りました。
「ううん、もう四、五日で帰るの。
……こんなところにいるより、おうちにいるほうがずっと楽しいんだもの」ホテル住まいだの、贅沢な暮らしなんか、あたしの趣味ではありませんの」
『恋人』は、ちょっと不思議そうな目をしながらキャラコさんを見つめて、
「ほう、どんな暮らしがあなたの好みなんですか?」
「そうねえ、なんて言ったらいいのかしら……うまく言えないけど、普通のきちんとした生活なら、同じ時間に同じことをするでしょう? 昔からの変わらないお友達に会ったりして……」
「それはどういう意味ですか。
……ちょっとよくわかりませんが……」
「困ったわね……」
キャラコさんは考え込みながら、一生懸命に説明しました。
「あたし、お家ではいつもこんなふうに過ごしているの。
……きちんと時間割を作って、その中で仕事したり、色々なことを考えたり、本を読んだりするのよ。
……それから、決まった曜日に、仲のいいほんの少しのお友達とお互いに行き来したり……。
ところが、ここへ来てからは何もかもすっかり変わってしまったわ。
ここでは、ひとりで気ままにお散歩したり、自分の世界にどっぷり浸ったりしちゃいけないの。
編み物をすることも、本を読むことも、あんまり大きな声で笑うこともできないんだから。
……ただ何もせずに、膝の上に上品に手を置いて、こんな風にニコニコと微笑んでいなくちゃいけないの。
……もっとも、そんなおすまし顔ばかりしているとおバカさんだと思われちゃうから、時には何か気の利いた冗談でも言わなくちゃいけないことになってるのよ。
……すごく大変でしょう? あなた、これについてどう思う?
……少なくとも、あんまり気楽なものじゃないってことくらいは、わかるでしょう?」
『恋人』は何度も何度もうなずいてから、突然こんな質問をしました。
「あなたは、結婚についてどんな風に考えていらっしゃいますか。
……結婚したいですか?」
キャラコさんはパッと顔を輝かせて、
「ええ、結婚したいわ!
だって、あたし、子どもがだーい好きなんだもの。
素敵なお母さんになって、立派な子どもを産むのがあたしの夢なのよ」
そのとき、窓の外で「キャラコさーん」と呼ぶ声がしました。
沼間夫人です。
沼間夫人は、社交室に『キャラコさんの恋人』がいるのが嫌で、中に入ってこないのです。
キャラコさんはあわてて外へ出ていきました。
窓の外で、沼間夫人が、キャラコさんが槇子たちのお伴をして出かけなかったことや、あんな変で汚らしい男と話していることを、ネチネチとくどくどしく叱りつけています。
小さな声で話しているつもりなのでしょうが、沼間夫人の声はカン高いので、社交室の中にまで丸聞こえなのでした。
キャラコさんがしょぼんとして戻ってくると、『恋人』が言いました。
「叱られちゃいましたね」
キャラコさんは慌てて首を横に振りました。
「ううん、叔母さまはあたしを叱ったりなんかしてないわよ。
すごく親切な人なんだから」
『恋人』は、底意地の悪そうな、からかうような笑みを浮かべて、
「ほほう」
と言いました。
キャラコさんは優しく抗議します。
「どうしてそんな風に面白がるような言い方をするのよ。
叔母さまはちょっと口うるさいところもあるけれど、でも、お年頃の娘が三人もいたら、優しくしてばかりもいられないわよ」
「なるほどねえ。
……なんだか、わたくしの話も出ていたようでしたが」
キャラコさんは正直に打ち明けました。
「自分の名前も隠しているような怪しい人と親しくしちゃいけないって、そう言われたの」
『恋人』はしばらくうつむいていましたが、すっと顔を上げると、少しぶっきらぼうな口調で言いました。
「そんなことなら、わけはありませんよ。
……叔母さんに、わたくしは『山本』という者だと言ってください」
「ご職業は?」
『恋人』は少し考えてから、なんだか陰気な声で答えました。
「手相術師……です。人の手相を見ています」
五
次の日のこと、晩餐の時間になっても、槇子がなかなか帰って来ませんでした。
時計の針は、もう七時を回ろうとしています。
キャラコさんは、食卓の上にきれいにおかれたナプキンを眺めながら席についていましたが、だんだん心配になってきました。
沼間夫人は、きれいに剃り込んだ細い眉の間に深いシワを寄せ、いらいらと食堂の入り口の方を何度も振り返りながら、平然とした顔で食事を始めている麻耶子に、
「ねえ、槇子は一体どこに行ったのか、本当に知らないの?」
と、また同じ質問を繰り返しました。
マヤ子はツンとした態度で、
「もう、イヤになっちゃうな。何度同じことを聞くのさ!
だから、知らないって言ってるじゃないか」
「じゃあ、槇さんといつ、どこで別れたっていうの?」
「伊東の入り口のところだよ。
……『潮吹岩へ行こう』ってボクを誘ってきたけど、ボク、そんなのつまんないからヤダって断って、ひとりで帰ってきたんだもん」
「一緒だったお友達は、どなたとどなただったの?」
「知らないよ、ボクは」
「知らないなんてこと、あるわけないでしょう!」
「別れるときはひとりだったんだから仕方ないでしょ。
別れてからのマキの連れなんか、ボクが知るわけないじゃないか。
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