初級翻訳・ジャンの物語 第2話

ジャンの物語

民話を書きはじめ、当時のロシアの正教会の神学に対する批判を書き、『我が懺悔』『我が宗教』『我等何をなすべきか』などを著し、自分大好きだった狩猟さえも、「楽しみのための生き物殺しだ」と反対してやめてしまいました。
次から次へと生まれてくる子どもたちの世話をしたり、家事を切り盛りしたりしながら、夜を徹してまでレフ・トルストイの書いた原稿をきれいに清書して支えつづけてきたソフィヤ夫人とトルストイのあいだは、トルストイが人生の壁にぶつかるたびに、少しずつ心が離れていきました。

一八八七年、五十九歳になったトルストイと四十三歳のソフィヤ夫人は銀婚式をむかえました。それはおそらく、世界的な大芸術家であり、社会を変えようとする人であり、哲学者でもあるトルストイの名誉にふさわしい、家族そろいのお祝いだったことでしょう。しかしトルストイは、自分の一冊の日記帳に、たった一行だけ、ぞっとするような重みのある言葉を書き残しています。
「もっと素晴らしい夫婦であり得たはずだ」と。

晩年、とりわけ最後の数年間のトルストイとその家族の暮らしぶりというものは、まるで、すごいスピードで崩れ去っていくロシアの貴族社会の、もっとも激しい心と頭の戦いの歴史を見ているようなありさまでした。
そもそもレフ・トルストイの考え方や芸術は、世界中の文学のなかでもずば抜けて力強い追求のパワーと、現実を生々しく描き出す力を持っているにもかかわらず、当時のロシアでムーブメントを起こし発展しつつあった社会の考え方とは、まったく違う道を歩んでいました。
「一人ひとりの人間としての自覚」や「道徳的・宗教的な愛の実践」こそが人生をきれいにしてくれると考えたトルストイは、自分自身が大きなどこかの土地を持つ地主であり貴族であるという生活環境を批判するあまり、農民たちの素朴な信仰心や、飾り気のない人間性を理想的なものとして捉え、ある意味では美しく見立てて高く評価しました。
よく働き、菜食を心がけ、百姓たちと同じようなルバーシカ(ロシアのゆったりしたシャツ)を着て、民話を書き、村の子どもたちのための学校を開く――そんな、ソフィヤ夫人の不平や怒りの種になるようなことの数々に、トルストイは、本気で人類みんなの自由と平和をめざして身を捧げたのであった。

しかしながら、社会の仕組みが作り出している複雑な損得の対立、悪い行い、悲惨な現実、そして戦争のむごたらしさなどを、農民たちの素朴な信仰心だけで根っこから完全になくすことなどできるはずもありません。また、そうした厳しい現実の生活を、当時の世の中のありのままの姿で実現することも不可能でした。
トルストイが、その持っているすべてのエネルギーのすばらしさと力強さを注ぎ込んで、最後にたどり着いた痛ましいまでの「無抵抗主義(暴力に暴力でやり返さないという教え)」の考え方の中には、じつは、社会が崩れていくことに対して科学的・客観的な見方がまったくできなかったという彼自身の階級の限界と、「何百万もの農民たちの抗議や、どうしようもない絶望」がそのまま映し出されていたのです。

男女の恋愛に対して、そして女性という存在に対して、トルストイが抱いていた宗教的・道徳的な考え方は、今の時代から振り返ってみると、ある意味では自分の思い込みであり、勝手な決めつけによる罪の意識だったと言うことができます。
貴族の夫人や娘として生きるまわりの日常に対しても批判の目を向け、「子どもを産み、苦労して育てることだけが、人間の性(さが)のゆるみや女性のくだらなさをきれいに洗い流してくれるのだ」というふうに考えていたのでした。
社会全体の大きな枠組みの中で女性の生き方を考えることはできず、女性作家のジョルジ・サンドのことも嫌いでした。
この「女性に対する、一見知的なようでいて、実は自分の感覚や思い込みに基づいている思想」は、トルストイのすべての芸術作品を貫いている、一つの大きな特徴となっています。

「トルストイアン」と呼ばれる仲間たち(あの作家ゴーリキイの観察によれば、そのほとんどが鼻につく鼻持ちならない連中ばかりだったそうです)にとりかこまれ、「どんな暴力にも逆らわない」という教えにしたがって、自分の財産をすべて手放したがっているトルストイの願いに対して、おびえ、憎しみ、その暴走を食い止めようと立ち向かった一番の人は、妻のソフィヤ夫人と、五男のアンドレイでした。
ソフィヤ夫人は、「子どもたちを育てる家庭の父親としての義務を果たしなさい」とトルストイを責め立てました。そして、トルストイの考え方に真っ向から反対したアンドレイを先頭にした息子の一群は、「当然自分たち息子に分けられるべき財産が、父親のまわりに群がる怪しげな連中に横取りされてたまるか」という、息子としての財産を守る権利の主張に立ち上がったのです。

このいさかいは、ソフィヤ夫人が直接トルストイの作品の「出版者」をしていたという事情があったため、ますますこじれて泥沼化していきました。
いまや世界中から注目されるトルストイが、晩年になって書き残す日記の一冊、一葉のメモにいたるまで、それは出版を牛耳る経営者としてのソフィヤ夫人が「すべて私の出版物のために!」と残さず自分のものにしようと狙っているものでした。しかも、トルストイの「親友」と自称する連中もまた、「まだ世に出ていないお宝の原稿」を手に入れようと、まわりをチョロチョロと飛び回っていました。
トルストイは、「この家族の争いに、もう体や神経が耐えられなくなってきた」と感じるようになりました。

八十二歳になったトルストイは、日頃から家族の中で数少ない自分の理解者であった三女のアレクサンドラに手伝ってもらい、こっそりと家を飛び出しました。
どこかの僧院へと向かう途中の列車の中、トルストイはアスタポヴォという名の寒村の小さな駅で急に重い肺炎をこじらせ、そのまま息を引き取ったのでした。レフ・トルストイは、自分の生涯をかけてもどうしても解決できなかったたくさんの矛盾を、まっすぐに、ごまかすことなく一身に背負いながら、そして心に傷を負いながらも、「自分自身が手に入れたものよりも、はるかにたくさんの大切なもの」をソフィヤ夫人と八人の子どもたちに残して、この世を去りました。

レフ・トルストイが亡くなった一九一〇年といえば、そのわずか四年後には第一次世界大戦が起きた年です。
そしてそのさらに三年後、亡くなったレフ・トルストイが、眠っているあいだも休むことなく激しく燃えさかっていた「人間の精神の強い願い」によって探し求めていた、すべての人びとの幸せへの、とても難しくてたくさんの分かれ道がある第一歩が、ロシア全土で踏み出された年なのです。

お父さんのことを本当の意味では理解できなかった当時の国の権力の力まで借りて、財産を自分たちの手元にしっかりキープしようとした息子たちは、歴史のさらに大きな時代の波によって、ある者はその財産をすっかり失ってしまったでしょうし、ある者はそのお金の力のおかげでフランスへにげることができました。

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