八月の十五日は晴れた夜が多いものですが、九月の十五夜は、いつも曇りがちです。
でも今年は珍しく雲ひとつない快晴で、令子も縁側に座って月見を楽しみました。
澄み切って輝く、ゆったりとした大きな月が、ポプラの木の梢の上にのぼると、月明かりにうっとりした向かいの家の書生たちが、大勢で屋根に上がり、にぎやかに歌を歌い始めました。
令子の庭には萩の花が咲いていて、少し色づき始めたザクロの実が、月の光を浴びて地面に影を落としています。
書生たちの歌声が響き渡り、まるでタヌキが化かしているような不思議な雰囲気でした。
そのとき、月がますます冴えわたると、庭にあるオレゴン杉の柔らかな茂みの陰に、白い山羊が現れました。
まばゆいほどに白い、一匹の山羊です。
その山羊は、だんだんと大きく見えるようになりました。
よく見ると、白い山羊と向かい合うようにして、耳の長い黒いロバが一匹立っています。
白い山羊と黒いロバは、月の光の中で生まれたかのように、偶然オレゴン杉の陰で出会ったのです。
山羊は首を上げ、縁側にいる令子に背を向けたまま、何やら熱心に黒いロバに向かって話しかけています。
ロバは片方の耳をピンと立てて頭を下げ、おとなしく山羊の話を聞いています。
黒いロバは、ただじっと耳を傾けているだけです。
白い山羊もしばらくすると黙り込み、少しだけ首をかしげました。
向かい合ったままの二匹は、月明かりの屋根の上で浮かれて歌う書生たちの声に、じっと耳を澄ませているようでした。
やがて歌が終わると、あたりはひっそりと静まり返り、虫の声だけが聞こえてきます。
時折、風も吹き抜けます。
白い山羊は、身震いをするように体を動かすと、後ろ足のひづめで「トン」と、月光がこぼれる地面を蹴りました。
黒いロバは令子の方へ向きを変え、順番に足を折って座り込みました。
ふと見ると、先ほどとは反対側の赤松の裏にも、また別の白い山羊が姿を見せていました。
夜は十二時を過ぎていました。
令子は、動物たちを驚かせないように、そっと雨戸を閉めました。
朝になりましたが、萩の葉の裏には、水銀のようにきらめく月の光の余韻が残っています。
令子は、海面に砕け散る月を見たいという気持ちに駆られました。
月の光にはいつもほのかな香りがあるものですが、秋の潮は十六夜の月に照らされて、高く激しく吹き荒れているに違いありません。
令子は興津(おきつ)行きの汽車に乗りました。
勝浦のトンネルとトンネルの合間で、ちょうど昇り始めたばかりの月をちらりと見ました。
鵜原(うばら)は「太平洋のナポリ」だと誰かが言っていたので、令子はあの岩場と海を照らす月を心に描いてやってきたのです。
鵜原で汽車を降り、宿の場所を駅の係員に尋ねると、
「あの巡査さんが途中まで行くから、一緒に行くといいですよ」
左手には黒々と岩山がそびえ立ち、駅から歩いているのはわずか三、四人だけでした。
巡査の白い制服が、夜の闇の中でひときわ目立ちます。
追いついて再び宿の場所を尋ねると、巡査は困ったように立ち止まりました。
止まった場所の左手には、真っ暗なトンネルがぽっかりと口を開けています。
そこを抜けても、まだ遠くまで歩かなければならないようでした。
巡査と一緒に立ち止まった人の中に、一人の漁師がいました。
「俺がぐるりと回って連れて行ってやるよ」
令子は漁師の後について歩き出し、トンネルの中へと入りました。
最初は民家の明かりで、黒と白の縞模様の、まるでドガの絵のような漁師の着物の背中が見えていたかと思うと、すぐに闇に吸い込まれていきました。
漁師は裸足だったので足音はしませんでしたが、令子の下駄の音だけがトンネルの中に反響しました。
やがて、出口からの光でぼんやりと漁師の頭の輪郭が見えるようになりました。
開けた場所に出ると、令子は飢えたように空を見上げましたが、月は雲の裏側に隠れていました。
薄明かりが、草原と、令子と漁師が歩く道を照らしています。
またトンネルがありました。
今度は短いトンネルです。
虫の鳴く音や、自分の下駄の音が、トンネルを抜けるたびに新しく令子の耳に響きました。
また長いトンネルがあり、続いて雨よけの屋根のようなトンネルがあり、突き当たりにようやく、「鵜原館」と電灯で照らされた白い看板が見えました。
波の音が聞こえます。
宿の人は、こんな時刻に来る客があると思っていなかったらしく、案内をしてくれた漁師に言葉もかけませんでした。
令子は、自在に姿を変える銀色の小さな月のような硬貨を、漁師の手のひらに落としました。
松の梢と日よけがあるせいで、月は令子の部屋までは差し込んできません。
空には雲も出てきました。
畳に横になって待っていると、雲から顔を出した月は、輝きを放つ間もなく流れてくる雲の中に憂鬱そうに埋もれていきました。
海はこの宿の下で入り江になっていて、岩壁に掘られたたくさんの生簀(いけす)の水に、淡い月の光と大洋の波音が暗く響いてきます。
裏手の障子を開けると、そこもすぐに岩場でした。
その岩には、上の崖から葛(くず)の花が垂れ下がっています。
葛の花は一晩中、砂地に立つ電灯の光を浴びていました。
コメント