初級翻訳・トロッコ 第2話

トロッコ

が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼等も帰れない事は、勿論彼にもわかり切っていた。
その次に車の止まったのは、切崩した山を背負っている、藁屋根の茶店の前だった。
二人の土工はその店へはいると、乳呑児をおぶった上さんを相手に、悠悠と茶などを飲み始めた。
良平は独りいらいらしながら、トロッコのまわりをまわって見た。
トロッコには頑丈な車台の板に、跳ねかえった泥が乾いていた。
少時の後茶店を出て来しなに、巻煙草を耳に挟んだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。
良平は冷淡に「難有う」と云った。
が、直に冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。
彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。
菓子には新聞紙にあったらしい、石油の臭いがしみついていた。
三人はトロッコを押しながら緩い傾斜を登って行った。
良平は車に手をかけていても、心は外の事を考えていた。
その坂を向うへ下り切ると、又同じような茶店があった。
土工たちがその中へはいった後、良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり気にしていた。
茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。
「もう日が暮れる」――彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。
トロッコの車輪を蹴って見たり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押して見たり、――そんな事に気もちを紛らせていた。
ところが土工たちは出て来ると、車の上の枕木に手をかけながら、無造作に彼にこう云った。
「われはもう帰んな。
おれたちは今日は向う泊りだから」
「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら」
良平は一瞬間呆気にとられた。
もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そう云う事が一時にわかったのである。
良平は殆ど泣きそうになった。
が、泣いても仕方がないと思った。
泣いている場合ではないとも思った。
彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜をすると、どんどん線路伝いに走り出した。
良平は少時無我夢中に線路の側を走り続けた。
その内に懐の菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを路側へ抛り出す次手に、板草履も其処へ脱ぎ捨ててしまった。
すると薄い足袋の裏へじかに小石が食いこんだが、足だけは遙かに軽くなった。
彼は左に海を感じながら、急な坂路を駈け登った。
時時涙がこみ上げて来ると、自然に顔が歪んで来る。
――それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。
竹藪の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山の空も、もう火照りが消えかかっていた。
良平は、愈気が気でなかった。
往きと返りと変るせいか、景色の違うのも不安だった。
すると今度は着物までも、汗の濡れ通ったのが気になったから、やはり必死に駈け続けたなり、羽織を路側へ脱いで捨てた。
蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。
「命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、辷ってもつまずいても走って行った。
やっと遠い夕闇の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。
しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。
彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。
良平はその電燈の光に、頭から汗の湯気の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸のまわりで水を汲んでいるおばさんたちや、畑仕事から帰ってくる男の人たちは、良平が息を切らしながら必死に走っていくのを見て、「おい、どうしたんだい?」と声をかけました。
でも、彼は何も言わないまま、雑貨屋さんや床屋さんといった、明かりのともった家の前をどんどん通り過ぎていきました。
自分の家の門のところに駆け込んだとき、良平はついにこらえきれなくなり、声をあげてわっと泣き出してしまいました。
その泣き声を聞いて、まわりからお父さんやお母さんが一斉に集まってきました。
特にお母さんは何か言葉をかけながら、良平の体を支えるように抱きしめました。
けれど良平は、手足をバタバタと動かしながら、しゃくりあげては泣き続けました。
その泣き声があまりにも激しかったせいか、近所のおばさんたちも三、四人、薄暗い門のところに集まってきました。
お父さんとお母さんはもちろん、集まった人たちも、代わる代わる「どうして泣いているんだい?」とわけを尋ねました。
しかし彼は、何を言われても大声で泣き叫ぶよりほかありませんでした。
あの遠い道のりをずっと走ってきた、これまでの心細さを思い返すと、いくら大声で泣き続けても、まだ泣き足りないような気持ちにせき立てられながら、…………
 良平は二十六歳のとき、妻と子どもと一緒に東京に出てきました。
今はある雑誌社の二階で、赤鉛筆を握って原稿のまちがいを直す仕事(校正)をしています。
でも、彼はふとした拍子に、まったく何の前触れや理由もないのに、あのときの自分のことを思い出すことがあります。
まったく理由もないのに?――日々の疲れや忙しさにまいっている彼の目の前には、今でもあのときと同じように、薄暗い藪や坂道のある細い一本道が、ずっと遠くまで途切れ途切れに続いているのです。
…………

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