初級翻訳・ビジテリアン大祭 第13話

ビジテリアン大祭

何を話そうかと思った時には、すでに演壇の上に立ち、みんなを下から見下ろしている状態でした。
陳(ちん)さんが一番遠くの席で、しきりに拍手をしてくれていました。
みんなの姿は、まるで野原に咲く花々のように見えました。
私は話し始めました。
「前の演説者は、仏教徒としての立場で菜食主義を否定し、肉食を主張されましたが、残念ながら私また、敬虔(けいけん)なお釈迦さまの弟子として、前論士の説く間違いを指摘せずにはいられないのであります。
まず最初にはっきりと述べなければならないことは、前論士は結局のところ、仏教に対して、特に腐敗した日本の教権(宗教的権威)に対して、一種の骨董品のような珍しいものとしての好奇心を持っているだけであり、決して仏の弟子でもなければ仏教徒でもないということです。
それは、彼の演説の中で、たくさんの如来(にょらい)や正遍知(しょうへんち:正しい悟りを開いた方)に対して、あってはならない不敬な言葉をふりまいたことによって、あまりにも明白であります。
とりわけその最後の言葉を見なさい。『地下のお釈迦さまもさぞ迷惑であろう』とは、これはいったい何という言葉でしょうか。いったい誰が、如来を心から信じる者の中で、お釈迦さまを『地下(土の中や死後の世界)』にいるなどと言う者がいるでしょうか。私たちは決して、このような仏弟子の皮をかぶりながら、心の中には高慢でねじ曲がった悪魔の使いのような者を許すわけにはいかないのです。
見なさい、彼は自分のマスタードの種ほどの小さな知識で、あの尊い最高の世界(無上土)を測ろうとしています。その議論を今さら私が繰り返すだけでも恥ずかしいことですが、事実を証明するために指摘するならば、彼はこう言っているのです。
『キリスト教の国に生まれて仏教を信じる理由は、どうしてかというと仏教が深遠だからである』と。
キリスト教を信じる諸君、立場を入れ替えて次の言葉を諸君は許容するでしょうか。『仏教の国に生まれてキリスト教を信じる理由は、どうしてかというとキリスト教が深遠だからである』と。
諸君はその軽薄さに、不快感を禁じ得ないはずです。
私から言わせてもらえば、前論士のような人物には、どちらの教えが深遠であるかなんて、見当のつけようすらないのです。
次に、前論士は私たちの世界における『善』について述べられました。
『この世界で行われる私たちの善なるものは、結局のところ根のない木である』と。これはおそらく、如来の大きな力を受けることなくしては真の善などありえないという意味でしょうし、私もそのように信じます。
その次に、『これはこうなればよいとか、これはこうでなければいけないとか、そんなものは何の意味もない』と。これもまた、如来の御心によるのではなく、私たち人間の勝手な都合や計らいだけで考えることなら、まさにその通りだと言えると私は思います。
前論士もまた、そういう意味で言われたようです。
ただし、『ただ速やかにかの西方の覚者(阿弥陀仏)に帰依せよ』という点については、仏教の教えの中でもいろいろと議論のあるところです。
今はその話は避けておきましょう。
ただ、私たち仏教徒は、まずお釈迦さまが説かれた記録である仏典(お経)に従うということを、しっかりと覚悟しようではありませんか。
仏典に従うならば、『五種浄肉』というものは、まだ修行が未熟な人たちにだけに特別に許されたものであったことが、『楞迦経(りょうかきょう)』というお経の中にハッキリと書かれています。
それすらも、最後のお経である『涅槃経(ねはんぎょう)』の中では、「今より以後、汝ら仏弟子は肉を食べることを一切許されない」とされているのです。
その『五種浄肉』ですらも、前論士が言ったような「あまり残虐な行為によらない」というような、そんな単純なものではありません。
仏教におけるさまざまな食事のきまり(食制)についての詳しい考え方は、ほかにどなたか発表する予定があるようですので、ここでは省略することにします。しかし最後に、前の論士は、お釈迦さまが生涯の最後に受け取ったおくりものは豚肉だったと言いましたが、それはなんと大きなまちがいでしょう。豚肉ではなく、それはキノコの一種だったのです。
サンスクリット語の音が似ていたというだけで、あんなふうに軽はずみにまちがえてしまったのです。
だからこそ、私は、前の論士が使った言葉そっくりそのままをそのままお返しします。
仏教徒のみなさん、お釈迦さまを見習いなさい、お釈迦さまのそっくりさんになりなさい、お釈迦さまのすべてのすばらしい徳を、二万分の一、五万分の一、あるいは二十万分の一のミニチュアサイズにしてしっかりと学びなさい!
ああ、この言葉のもつ、なんと軽薄でかるいことでしょう。
私は自分で口にしておきながら、こんな言葉を口にしてしまったことをさらに恥ずかしく思います。
私は次に、宗教のほんとうの精神から考えて、肉を食べてはいけないということがいかに当然であるかを論じたいと思います。
キリスト教の精神を一言で表すなら、それは「神の愛」ということになるでしょう。
神が天と地をおつくりになったというような、「つくる」という言葉は、つきつめれば私たちに対する一つのたとえであり、表現なのです。
マットン博士のように、むずかしくてまちがった理論を持ち出す必要はありません。
結局のところ、それは「愛」なのです。
あらゆる生き物に対する愛なのです。
どうしてそんな愛すべき生き物を殺して食べることが、当たり前のことであるはずがありませんか。
仏教の精神に目を向けるなら、それは「慈悲(じひ)」です。如来さまの慈悲であり、完璧な智慧(知恵)をそなえた愛なのです。仏教が始まった出発点は、「すべての生き物がこんなにも苦しみ、こんなにも悲しんでいる。私たち人間も、そしてこれらすべての生き物たちも、みんな一緒にこの苦しみの状態から抜け出したいと願っている」ということなのです。
その生き物とはいったい何なのでしょうか。その話はあまりにも深く、みなさんの胸を痛くするかもしれませんが、それが真実である以上、避けることはできません。ありのままに直球でお話ししようと思います。
すべての生き物たちはみな、数えきれないほどの途方もない遠い昔から、生まれ変わり死に変わり(流転)を何度も何度もくり返してきました。
その生まれ変わる世界は、大きく分けると九つあります。
私たちは今、目の前でそのうちの二つを見ています。
ある一つのたましいは、ある時は人間として生まれます。
ある時は畜生、つまり私たちが「動物」と呼んでいるものの中に生まれます。
またある時は、天国のような素晴らしい世界(天上)にも生まれます。
その長い旅の途中で、たましい同士は近づいたり離れたりします。
つまり、友人になったり、恋人同士になったり、兄弟になったり、親子になったりするのです。
そうやってお互いに離れ離れになり、別の人生をはさんでしまうと、もうお互いに誰だかわからなくなってしまいます。
果てしない時間のなかでは、無限の組み合わせが可能です。
だからこそ、私たちの周りにいる生き物たちはみんな、長い時間のなかでの親子であり、兄弟なのです。

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