初級翻訳・フランダースの犬 第9話

フランダースの犬

それだけなんだ」
「ああ! そうか」
 老人は黙ってしまいました。
少年の純真な答えから、おじいさんには事情がのみこめました。
おじいさんは、今でこそぼろ小屋の隅っこで、乾燥した木の葉っぱをしきつめたベッドに寝たきりになっていますが、世間のやり方というのがどういうものかを、完全に忘れた訳ではありませんでした。
おじいさんは、いつもより優しい身振りでネロの金髪の頭を彼の胸に抱き寄せました。
「おまえは、ひどく貧しいんじゃよ」と、震える声でジェハンじいさんはいいました。
「かわいそうに! どんなにつらかろう」
「ううん、ぼくは豊かだよ」
 ネロはつぶやきました。
ネロは無邪気にそう思っていました。
王の力より強大な、不滅の力をもつ財宝を持っていると。
ネロは静かな秋の夜に、小屋の戸口にいって、柱によりかかりました。
そして、星の群れを見上げました。
高いポプラの木は、風でたわんで揺れていました。
粉屋の家の窓は、すべて灯りがともり、時々フルートの音が聞こえてきました。
涙が頬にこぼれ落ちました。
なんと言っても、ネロはただの子供に過ぎませんでした。
でも、ネロは微笑みました。
「未来があるさ!」と、自分に言い聞かせて。
ネロは、あたりが静かになり、闇につつまれるまで、そこにたたずんでいました。
それからネロとパトラッシュは、小屋の中に一緒に入って、並んでぐっすりと眠りました。
さて、ネロには、秘密がありました。
そのことは、パトラッシュだけしか知りませんでした。
小屋には小さな離れがありました。
ネロ以外は誰も入らなかった部屋で、ひどくわびしい場所でした。
でも、北側からたっぷりと光が入ってきました。
ここにネロは、そまつな板で、適当に画架をつくりました。
そこに大きな灰色の紙を広げて、頭に浮かんだ数えきれないほどの想像のうちの一つを形にしました。
ネロはこれまで誰にも教わったことはありません。色のついたクレヨンなんて、ネロにはとても買えませんでした。
ここにあるわずかで粗末な道具を揃えるためでさえ、ネロは時々ごはんを抜かなければならなかったのです。
そして、ネロが見た世界をかたちにするのは、ただ白と黒だけでした。
彼がクレヨンで描きあげたこのすばらしい絵は、倒れた木にぽつんと座っている一人の老人、ただそれだけのものでした。
ネロは、村の年老いた木こりのミッシェルが、夕方にいつもあんなふうに座っている姿を、しょっちゅう目にしていたのです。
ネロには、絵の描き方(デッサン)や、遠近法(えんきんほう)、体のつくり(解剖学)、影のつけ方なんていう絵のテクニックを教えてくれる人は誰もいませんでした。
それなのに、年をとって弱々しくなった木こりの、たまらなく悲しそうで、じっと静かに耐えているような様子や、ごつごつとしてはいるけれど疲れ果てた雰囲気が、ネロだけの特別な情熱によって、見事に描き出されていたのです。
ネロが描き上げた、暮れゆく秋の夕暮れの暗闇の中で、何か深いもの思いにふけりながら枯れ木に腰かけている、年老いた孤独な人物の絵は、まるでひと編の美しい詩のようでした。
もちろん、その絵はまだまだ荒削りで、いろんな欠点もありました。
それなのに、その絵はものすごく真に迫っていて、あまりにも自然で、芸術的で、そして切なく、美しかったのです。
パトラッシュは、ネロが毎日の仕事が終わったあとで、この作品を少しずつ完成させようとしているのを、数えきれないほどの時間、おとなしくそばで見守ってきました。
そして、パトラッシュは知っていました。ネロが、ある大きな望みを心に抱いていることを。
それはおそらく叶わない、あまりにも無謀でむずかしい望みでしたが、ネロはこの秘密の夢を深く胸の奥にしまっていたのです。
それは、この絵を、年に一度ひらかれる「賞金二百フランがもらえるコンクール」に出品して、優勝することでした。
このコンクールは、絵の才能がある十八歳以下の若者なら、学生だろうと農民だろうと、誰でも参加できることになっていました。そして、出せる作品は、大人の手を借りず、自分で描き上げたクレヨン画か鉛筆画と決まっていたのです。
審査員をするのは、ルーベンスの街、アントワープで一番有名な三人の画家でした。
その三人による多数決で、優勝する作品が決まるのです。
春の間も、夏の間も、そして秋の間ずっと、ネロはこの絵を描き続けました。
もしこれで優勝できたら、毎日の暮らしに困ることもなくなるし、今までずっとわけもなく、ただ熱烈にあこがれてきた「芸術の神秘」へ向けて、大きな一歩を踏み出すことができるのです。
ネロは、この秘密を誰にも話しませんでした。
おじいさんにはきっと理解できないでしょうし、アロアとも話せなくなってしまっていたからです。
「もしルーベンスがこの絵を見てくれたら、きっとぼくに賞をくれると思うんだ」
ネロは、パトラッシュだけに自分の思いのすべてを打ち明けました。
パトラッシュも、きっとそうだと思いました。
なぜならパトラッシュは、ルーベンスがとても犬好きだったことを知っていたからです。
そうでなければ、あんなにも見事で生き生きとした犬の絵を描けるはずがありません。
そして、パトラッシュが知っているとおり、犬が大好きな人はみんな、心優しくて思いやりのある人たちなのです。
絵を提出する締め切りは十二月一日で、結果の発表は二十四日でした。
優勝した子が、クリスマスを家族と一緒にお祝いできるようにという計らいだったのです。
ひどく寒い冬の夕暮れどき、ネロは、胸が希望でいっぱいになったり、不安で怖くなったりしながら、その傑作を緑色の荷車にのせました。そしてパトラッシュに手伝ってもらいながら街へ行き、決められたとおりに、町の公会堂の入り口へそっと絵を置いてきたのでした。
「この絵には、いったい何の価値もないのかもしれない。
もしそうだとしたら、ぼくはそれをどうやって知ればいいんだろう?」
ネロは、おどおどしながら胸を痛めていました。
公会堂に絵を置いてきた今になって、ネロは思いました。自分のように靴下もはけず、文字だってほとんど読めないような少年が、偉大な画家や本物の芸術家である審査員たちに認められるような絵を描けるなんて夢見るなんて、あまりにも無謀で、途方もなくばかげたことだったのではないか、と。
それでも、帰り道にアントワープの大聖堂の前を通りすぎたとき、ネロはふと元気を取り戻しました。
ネロには、霧と闇の中から、ルーベンスの偉大な姿がぼうっと浮かび上がってきたように感じられたのです。ルーベンスはやさしい笑みをくちびるに浮かべながら、ネロに向かってこうささやいてくれた気がしました。
「弱気になってはいけないよ、勇気を出しなさい。
私の名前がアントワープの街に永遠に刻まれているのは、私が途中で弱気になったり、おどおどとおびえたりしなかったからだよ」
ネロはその言葉にそっと励まされ、凍えるような夜道を家へと急いで帰っていきました。
自分はできる限りの力を出し切った。
あとはもう、神さまのおぼしめしだ、とネロは思いました。

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