初級翻訳・ポラーノの広場 第14話

ポラーノの広場

「あの人は誰なんですか?」
私は火にあたっていたアーティストに尋ねました。
「撃剣の先生だよ」
すると、その撃剣の先生がズカズカと歩いてやって来ました。
「家の中の明かりを消せーい! 電燈を消したって、ほかの明かりを点けちゃなんの意味もない! 早く消せい! おや、今晩は。なるほど、こちらの商売じゃあ、しかたがないかねえ」
「ええ、先生、今晩は。ご苦労さまでございます」
親方が進み出て挨拶しました。
「いや今晩は。どうもひどい暑さだなあ」
「へい、全くです。虫がすごくて窓を閉めきりですし、やりきれませんや」
「そうだなあ。いや、じゃあな」
撃剣の先生はまた声を響かせながら向こうへ歩いていきました。
その声がだんだん遠ざかり、どこかの街角を曲がったらしい頃、あの青い海の中のような床屋の店内から、ついにデストゥパーゴが姿を現しました。
しばらく往来をきょろきょろと見回してから、スタスタと南の方へ歩き出しました。
私は後ろを向いて、火の中に落ちていく虫を見ているふりをしながら、すぐにその後をつけました。
デストゥパーゴは毒蛾に刺されたせいで、ものすごく落ち着かない様子でした。
おまけに、どこかひどくしょげ返っているようでした。
私は後をつけながら、なんだかかわいそうになってくるような気持ちがしました。
もちろんデストゥパーゴに声をかける人は一人もいませんでしたし、デストゥパーゴ自身も、なるべくみんなの目に付かないようにと、車道との境目にある並木の木の陰を歩いているのでした。
どう考えても、デストゥパーゴが陸軍の獣医たちとなんて大っぴらに付き合っているというのは、やっぱり嘘なのだろうと私は思いました。ついにデストゥパーゴは立ち止まると、しばらくまわりをきょろきょろと見回してから、広い通りから小さな小道へと入っていきました。
ぼくは知らないふりをして、どんどんその後をついて歩きました。
その小道に入ってすぐのことでした。デストゥパーゴは、小さな庭のついた門の中にスルスルと入っていったのです。
「しっかり事情を調べてからデストゥパーゴに声をかけようか、それとも警察に行って、イーハトーヴォでみんなが探しているデストゥパーゴが見つかったって言って捕まえてもらおうか」
ぼくはさっきまでずっとそう考えていました。でも、いま目の前でデストゥパーゴが自分の家に入っていくのを見たら、もう我慢できなくなって、気がついたら駆け出していました。
「デストゥパーゴさん! お久しぶりです!」
デストゥパーゴは「ビクッ!」と驚いて、その場で棒のように固まってしまいました。でも、ぼくの顔を見ると、逃げ出したりもせず、すっかりしょんぼりした様子でそこに突っ立っていました。
「ファゼーロを探してここにやって来ました。どうかあの子を返してください!」
デストゥパーゴは激しく両手をブンブンと振りました。
「それは大きな勘違いだ、勘違いだよ! あの子どものことは、わたしは何も知らないんだ!」
「いったいそれならあなたはどうして、こんなところに隠れているんですか!」
デストゥパーゴの顔が真っ青になりました。
「イーハトーヴォの警察は、ファゼーロと一緒にあなたを探しているんです! もう手配はすっかり済んでいて、今夜のうちにどうやったってあなたは捕まるんですよ。ファゼーロはどこにいるんですか!」
ぼくは、思わずそんな嘘をついてしまいました。
デストゥパーゴは、毒蛾に刺されたせいでぶくっと腫れあがった、おかしな格好の顔を斜めに向けながら、ブルブルと体を震わせ、聞き取れるかどうかもわからないほど早口で言いました。
「そんなはずはない、そんなはずはないぞ! わたしの名誉にかけて、紳士の名誉にかけて、そんなはずはないんだ!」
「それならどうしてあなたは、こんなところに隠れているんですか!」
デストゥパーゴはやっと震えるのをやめて、しばらく考え込んでから、少しだけゆっくりとした口調で言いました。
ちゃんと旅行の届け出を出して、代わりに頼める人も立ててあるはずだ。そのことについては警察署長にもしっかり許可をもらっている。だから警察だって、わたしを疑う理由なんて何もないはずなんだよ」
「それなら、どうしてわざわざ旅行届かなんて出して逃げたりしたんですか!」
デストゥパーゴは、ここでようやく落ち着きを取り戻しました。
「いやあ、まあ中に入ってください。くわしくお話ししますから」
デストゥパーゴが先に立って、小さな玄関のドアを押し開けました。
すると、ドアの内側でずっと様子を窺っていたのか、一人の小さなおばあさんが出迎えてくれました。
「お茶をいれてやってくれ」
デストゥパーゴはそう言うと、すぐ右側のお部屋へと入っていきました。
ぼくは「まだ油断はできない、もしかしたら逃げるかもしれないぞ」と思ったので、玄関のドアのところに立ったままでいました。デストゥパーゴは、中で薬の小瓶をカチカチと鳴らしてから、白い布で顔を押さえながら戻ってきました。
「さあ、どうぞこちらへ」
ぼくは応接室に通されました。デストゥパーゴはすっかり落ち着いた様子でした。
「わたしがこうして人目を避けて隠れているのは、警察の件とはまったく別の理由からなんです。じつはあなたもご存じかもしれませんが、あの森の中でわたしが社長になって、木材の乾溜(かんりゅう)工場を建てたでしょう? ところが、最近の薬品の値段がどんどん変わってしまって、だんだん赤字がふくらみ、どうにもこうにも立ち行かなくなってしまったんです。わたしはなんとか立て直そうと必死であれこれやってみましたが、どうしてもダメでした。もちろん、あの事業にはわたしの全財産もつぎ込んでいます。するとある日、重役会で『あの工場をそのままお酒の醸造所に変えてしまおう』という意見が出たんです。それで私たちも賛成して、試しにごく少量のテストをしてみたのですが、それを税務署に届け出ないままにしてしまいました。ところが、そのことをいいことに、わたしの部下の一人がわたしを脅してきたのです。あの晩のパーティーは、本当に厄介な状況でした。あそこに集まっていたのは全員が会社の株主で、わたしがあの場所を選んだのも、わざわざそうしたからなんです。でも、株主たちの怒りや不満はものすごかった。わたしもすっかりやけくそになって、あの晩はあんな風に酔っぱらっていたというわけなんです。そこへ、あなたたちが現れたというわけなんですよ……」
それを聞いて、ぼくはやっとあの晩の出来事がはっきりと理解できました。
それと同時に、目の前にいるデストゥパーゴの姿が、なんだかとてもかわいそうに思えてきたのです。
「いや、事情はよくわかりました。でも……ああ、ファゼーロはいったいどこへ行ってしまったんでしょうね」
デストゥパーゴがつぶやきました。
「わたしは、あの子どもを憎んでいるわけではないのです。もし以前のようにちゃんとした状態に戻れるなら、わたしが面倒を見て学校に入れてやりたいくらいだと思っているんですよ。でも、あの子どもはきっと今頃、どこかで何かをやらかしていますよ。警察だってそう睨んでいます」
ぼくは突然立ち上がり、デストゥパーゴに別れを告げました。
「では、ぼくはこれで失礼します。

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