あなたも、どうかここからお立ち退きください。ぼくも戻ったら、この事情を警察に話さないわけにはいきませんからね」デストゥパーゴはすっかりしょんぼりして言いました。
「いまわたくしは、本当に一銭の収入もないのです。どうかその事情をわかってやってください」
わたくしはペコリと頭を下げました。
「ロザーロは元気でやっていますか?」
デストゥパーゴがものすごい早口で尋ねました。
「ええ、どうやらしっかり働いているようですよ」
わたくしも、なぜか普段とはちょっと違う声で答えました。
六、風と草穂
九月の第一の朝、わたくしは旅の記録やいろんな調査の報告書を持って、いつもの時間に役所に出勤しました。
みんなに「おはよう」と挨拶して回り、所長の姿を見るやいなや、そのドアをトントンとノックして部屋に入りました。
「おお、帰ったか。どうだったかね」
所長は左手で、外れかかっていたシャツの襟(えり)のボタンを留めながら言いました。
「はい、おかげさまで昨日の夜に戻ってまいりました。こちらが今回の報告書でございます。集めてきた標本たちは、きれいに整理してから目録を作って、あとでお持ちします」
「うん、そんなに慌てなくてもいいよ」
所長はボタンを留め終えると、ピシッと背筋を伸ばしました。
わたくしは礼をして部屋を出ました。
その日は一日中、持って帰ってきた荷物をほどいたり、机の上に山のようにたまっていた書類を整理したりしているうちに、いつの間にか夕方になってしまいました。
わたくしもお仕事仲間たちのあとについて役所を出て、いつものように町のごはん屋さんで夕食を食べてから、競馬場の建物へと帰ってきました。
すると、やっぱりよほど旅の疲れがたまっていたとみえて、椅子にちょこんと腰を下ろした途端、いつのまにかうとうとと眠りこんでしまいました。
その甘く心地よい夕方の夢の中で、わたくしはあの茶色くてツルツルした昆布が干してある、イーハトーヴォの海の岩礁(がんしょう)の間を小舟に乗ってスイスイと漕ぎまわっていました。
すると突然、舟がグラグラと激しく揺れ動き、なんだかものすごく昔風の恐ろしい龍が出てきて、わたくしはボーンとはじき飛ばされて岩に叩きつけられたんだと思い込み、ハッと目を覚ましました。
誰かがわたくしの体をゆすぶっていたのです。
わたくしは何度もまばたきをして、しっかりとその顔を見つめました。
それはファゼーロでした。
「あっ、どうしたんだよきみは! ずっと前からここにいたのかい?」
わたくしはびっくりして声を上げました。
「ぼくはねえ、八月の十日に帰ってきたんだよ。でもおまえは、ずっとここにおらなかったじゃないか」
「いなかったともさ。海の方へ出張に行っていたんだからな」
「今夜ね、ぼくたちの工場へ来てほしいんだ」
「きみたちの工場? いったい何がどうしたんだ? そもそもきみは、どこをどうウロウロしてたんだよ!」
「ぼくはね、センダードの町にある革を染める工場に入り込んで働いていたんだ」
「センダードだって!? どうしてそんな遠いところまで行ったんだよ。それなのに今夜また、ぼくにセンダードまで行けって言うのかい?」
「そうじゃないよ、そうじゃないんだ」
「じゃあどういうことなんだよ! そもそも、どうしてあんな遠いところまで行っちまったんだ?」
「ぼく、どうしても自分の家に帰ることができなかったんだよ。だから自分の家を通り越して、もっともっと歩いて行ったんだ。そうしたら夜が明けてきた。ぼくが困って道端にポツンと座っていたら、革を買う人が通りかかってさ、その馬車にぼくを乗せてくれて、食べ物も分けてくれたんだ。それからぼくは、その人の仕事を手伝うようになって、とうとうセンダードの町までたどり着いたんだよ」
「そうか……。それを聞いて本当に安心したよ。ぼくはまた、きみがあの酢酸(さくさん)工場の大きな釜の中にでも放り込まれて、蒸し焼きにされちまったんじゃないかと心配していたんだからな」
「ぼくね、向こうで技師さんの助手をしたんだよ。そしたらその人が、いろんなことを何でも親切に教えてくれたんだ。薬の調合も全部教えてもらったんだよ。ぼくはもう、革のことなら、なめすことだって色をつけることだって、なんだって完璧にできるんだ!」
「それで、どうしてまた帰ってきたんだい?」
「警察の人たちから探されてさ。でも、そんなにこっぴどくは怒られなかったよ」
「きみの主人は何て言ったんだ?」
「『もうどこへ行ってもいいから、自分の好きなようにしなさい』って言ってくれたんだ」
「それで、今度はどうするつもりなんだい?」
「大人たちがね、ムラードの森にある工場にいて、ぼくにそこで革の仕事をしろって言うんだ」
「きみにそんな仕事ができるのかい?」
「できるさ! それにミーロだってお肉のくんせい(ハム)を作れるからね。みんなで力を合わせてやるんだよ」
「お姉さんはどうするんだ?」
「お姉さんも工場にやって来るよ」
「そうかい……それはよかったなあ」
「さあ、行こうよ! 今夜もみんなきっともう来ているはずだからさ!」
わたくしは急に体の疲れをすっかり忘れて、パッと立ち上がりました。
「よし、行こう! でも、そこは遠いかい?」
「この前のポラーノの広場の、ほんのちょっと向こうさ」
「それじゃあ少し遠いな。けれど、行こうじゃないか!」
わたくしは素早く旅行のときの格好のままで、ファゼーロといっしょに家を出ました。
ファゼーロはまた元気よく走り出しました。
空の雲は黄色っぽく濁って、鋭くギラギラと光りながら、南から北へグングンと飛んでいっていました。
だけど野原はシーンと静まり返っていて風もなく、ただいろんな種類の草が高い穂を出していたり、変にもつれ合っていたりするばかりでした。夏のツメクサの花はみんなすっかり鳶色(とびいろ)に枯れてしまい、その小さな三つ葉さえも、なんだかとても小さく縮こまってしまったように感じられました。
わたくしどもは、どんどん走り続けました。
「ほら、あそこに一つ、明かりが見えるよ!」ファゼーロがちょっと立ちどまって右手の草の中を指さしました。
そこの草穂のかげに小さな小さなつめくさの花が、青白くさびしそうにぽっと咲いていました。
俄かに風が向うからどうっと吹いて来て、いちめんの暗い草穂は波だち、私のきもののすきまからは、その冷たい風がからだ一杯に浸みてきました。
「ふう。
秋になったねえ。
」わたくしは大きく息をしました。
ファゼーロがいつか上着は脱いでわきに持ちながら、
「途中のあかりはみんな消えたけれども……。
」
おしまい何と云ったか、風がざあっとやって来て声をもって行ってしまいました。
そのとき、わたくしは二人の大きな鎌をもった百姓が、わたくしどもの前を横ぎるように通って行くのを見ました。
その二人もこっちをちらっと見たようでしたが、それから何かはなし合って、とまって、わたくしどもの行くのを待っているようすです。
わたくしどもも急いで行きました。
「やあ、お前さん帰って来さしゃったね。
まずご無事で結構でした。
」一人がわたくしに挨拶しました。
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