初級翻訳・レモンの花の咲く丘へ 第27話

レモンの花の咲く丘へ

お姉様 (ハッとして目を大きく見張り、スッと立ち上がる)まあ……!
少年 (勢いよく、早口で)灰色のお舟よ、灰色のお舟よ! お姉様をこんなところへ連れてきた灰色のお舟だよ。
……あの怖くて小さな舟のことが、ずっとぼくの目にちらついているんだ。
女子 (それを打ち消そうとして)ヨハナーンや、それはお前の何かの勘違いだよ。
(小声で)ああ、でも、子どもの神経というものは、子どもの記憶というものは……なんて不思議なのだろう……ヨハナーンや、(少年の首を自分の胸に抱き寄せながら)ヨハナーンや、そんなことはすっかり忘れてしまいなさい。
あんなことはね、覚えていても何の役にも立たない、ただの思い過ごしというものだから……。
……ヨハナーンや……もう何もかも……。
少年 ううん、お姉様、ぼくはどうしても忘れられないんだよ。
……あの日、お姉様がはじめてぼくに、あの歌を教えてくれたんだもの。
……「その日のために」っていう、悲しい歌を。
お姉様 まあ……。
少年 あの日、ぼくの胸はすごくドキドキしていたんだ。(自分の胸に手をあてながら)そして、なんだか泣きたいような気持ちになったのさ。
「泣いちゃダメだ」って思うのに、それでもやっぱり泣きたいような気がして……そしてね、お姉様!
お姉様 (ヨハナーンをかわいそうに見つめる)
少年 ぼくはもう、ちゃんと言葉にしなくても分かっていたんだよ。
お姉様 何が分かっていたのさ。
少年 お姉様とお別れしなくちゃいけないってことがさ。
お姉様 まあ……本当にかい?
……ヨハナーンや。
少年 うん、うん、ちゃんと思っていたんだよ。
どうしてかっていうとね。
その日の気持ちが、ちょうどあの日によく似ていたからなんだ。
お姉様 あの日って?
少年 ぼくにとっても優しくしてくれた女の人と、お別れした日のことさ。
……あのベッドの上の……。
お姉様 まあ……。
お母様とお別れした日のことかい?
少年 そう、そうだよ。
……そうなんだ。
だからぼくは心の中で、「今日はお姉様ともお別れなんだ」って思っていたんだよ。
お姉様 ヨハナーンや――お前さんは……!
少年 あの日、ふたりで岩の上に座っていたよねぇ。
ふたりの前には、濁った海がどんよりと広がっていたんだ。
雲が遠くの海に垂れ下がって、空と水とがまるで同じ色に染まっていたっけね。
……ふたりは岩の上に座ったまま、黙っていろんなことを考えていたよね。
どうして黙っていたんだろうね?
お姉様 色々なことを考えていたからだよ。
少年 そうしたらね、急にお姉様が歌を歌いはじめたんだよ。
あの歌を、「その日のために」っていう悲しい歌をさ。
……どうしてあんな歌を歌ったの?
お姉様 (しばらく沈黙。やがて、すべてを決心したかのようなきりっとした口調で、手短に)歌う時期が来たからだよ。
少年 歌う時期が、来たから?
お姉様 ヨハナーンや、あの歌はね、お母様が私たちを置いて、遠い遠いところへ行かれる日(チラリと塔のほうを盗み見て、小声で)あの塔の中へ行かれる日、(声を大きくして)私に教えてくれた歌なんだよ。
……「もう二度と会えないお別れなんだよ」って言ってね……。
少年 お姉様!
お姉様 ヨハナーンや、あの歌はねぇ、この世の最後のお別れに歌う歌なんだよ……。
少年 そんな悲しい歌を、どうしてあの日お姉様は歌ったの?
お姉様 歌う日が、やってきたからだよ。
少年 二度と会えないお別れの日が、あの時にやってきたんだね。
お姉様 そう、そうだよ、あの日がそうだったんだよ。
少年 お姉様! (と、ちょっと笑ってみせて)それなのに今日、こうしてまたふたりは会えたねぇ。
……お姉様とぼくが……。
お姉様 ヨハナーンや、それはねぇ……。
少年 ふたりは会えたんだよ。
……そして、これからはいつまでも一緒にいられるんだ。
この場所でねぇ……。女子 (まるで独り言のように)一緒にいられるって、一緒にいられるって……。ああ、ヨハナーンや、お前さんは本当にそう思うの……?
少年 だってお姉様!
女子 (考え直すように)ええ、ええ、私共ふたりはいつまでも一緒にいられますとも……。ええ、ええ、いられますとも。……でもね、ヨハナーンや。
少年 (無邪気に)ねぇ、いつまでも一緒にいられるんでしょう? ……だから、(笑いながら)ほら、あの日のお別れは、二度と会えないお別れなんかじゃなかったんだ。
女子 ううん、ヨハナーン。
(そう言うと、厳かな言葉と態度でヨハナーンにじっと迫る。
ヨハナーンは、何か重大な秘密が明かされるのではないかというように、お姉様の顔をじっと見つめる。
緊張に包まれた静けさ)
女子 ねぇ、ヨハナーンや。……今お前さんは、歌のメロディは知っているけれど、歌詞は知らないって言ったよね?
少年 うん、うん、お姉様、ぼく歌詞は知らないんだよ。
女子 ねぇ、そうでしょう? ……そしてお前さんは、その歌の歌詞を知りたくてここまで来たんでしょう?
少年 うん、うん、そうだよ!
女子 ねぇ、そうでしょう? ……だから、ふたりはこうして会えたんだわ。……あの日、お前がいま少し大きかったなら……。
少年 お姉様!(と、深刻そうな目つきと声で)……怖いよ!
女子 (あたりを見回して)ううん、怖いことなんかないわ。……ただね、ふたりでここで、あの歌をもう一度歌うのよ。
少年 (なんだかすべてを察したような様子で)お姉様が歌うのを、ぼくが聞いているんだね。
女子 ええ、ええ、そうよ。
少年 (お姉様の手をぎゅっと取って)お姉様! そしてぼくがその歌の歌詞を覚えるんだね。
女子 ええ、ええ、そうよ。
少年 (体を震わせながら)お姉様! そして、ふたりはお別れするの……。
女子 (ヨハナーンを抱きしめようと両手を差し出して)ヨハナーンや、そんな……。
少年 お姉様、ここが!(自分の胸を押さえながら)すごくドキドキするんだよ!
女子 いいえ、いいえ……そんなことないわ。
少年 あの日みたいに、すごく激しくドキドキするんだよ。
(ふたりは向き合ったまま声を出さず、じっと立っている。
戸外からは風と水の音が聞こえる。
少し長い沈黙。
――やがて、お互いに一歩進み出て顔を見合わせる。
――突然、ヨハナーンが発作のようにわっと泣き出す。
お姉様は慌てて彼を強く抱きしめる)
女子 ヨハナーンや、ヨハナーンや、泣いてはダメよ、ダメよ。私はお前と一緒にここにいるからね。ううん、お別れなんかしないから。ねぇ、ねぇ、ヨハナーンや……どうして泣くの……? 泣くのはおしまい、泣くのはおしまい! 泣くのをやめて、さあ、お話のつづきを教えてちょうだい。ヨハナーンや……そしてどうなったの? 私が歌を歌ったあと、どうなったの?
少年 (泣くのをやめて)お姉様!(と、すすり泣きながらまた自分の胸を押さえ、おずおずとあたりを見回す。
お姉様はこっそり窓辺に行き、黒い布を窓に垂らす)
女子 ねぇ、もう胸のドキドキもおさまったでしょう? ……泣くのはおしまい! ……そして、お話のつづきを話してちょうだい。
(独り言のように)ああ、こんな昔のことをふたりで語り合えるのも、ほんのわずかな間だけだわ……。

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