初級翻訳・レモンの花の咲く丘へ 第26話

レモンの花の咲く丘へ

お姉様 (さびしそうに)ね、もう風も止んだでしょう?

少年 ねえ、塔の中には何がいるの?

お姉様 ううん……。

少年 塔の中はきっと暗いんでしょ?

お姉様 ヨハナーンや。

少年 塔の中はまるで真っ暗なお墓みたいに、すごく暗いんでしょ?

お姉様 ヨハナーンや、ヨハナーンや!

少年 お姉様。

(泣き出しそうな声で)お姉様、塔の方へ行っちゃいやだよ。

お姉様 (こらえきれなくなり)ヨハナーンや、そんなこと言わないで。
……ううん、ううん、塔なんて何もないんだからね。お姉様はね、いつまでも、いつまでも、大好きな可愛いお前と一緒にいるからね。
ずっと一緒に、一緒にいるんだからね。

(部屋の中がしーんとしずまり返る。
小さな虫たちが、青い光のなかをときどきかすめるように飛んでいく)

お姉様 (少年の頭をやさしくなでながら)ヨハナーンや、昔ふたりで一緒に暮らしていた頃は、本当に楽しかったよねぇ。
ねえ、あの頃のお話をしようよ。
……悲しいことや怖いお話はおしまいにして、あの頃の楽しかったことだけをたくさんお話ししようねぇ。
……どうしてそんなに寂しそうな顔をしているの? もっとニコニコした楽しい顔を見せてちょうだい。
お姉様と一緒にいるんだからね。
ね、大好きな姉様と一緒にいるんだよ。

(小さな声で)たとえ、お別れがふたりの目の前に迫っていたとしてもね……。

(少しの間、ふたりは黙り込む――気を取り直して)ヨハナーンや、お姉様はね、お前とずっとここにじっと座っているからね。
さあ、だから昔のお話をしておくれよ。
昔、お前と私がいっしょにいた頃の、楽しかった思い出をさ。
……ふたりとも、お日様がポカポカあたたかい土地にいたよねぇ。

少年 (嬉しそうにこくりと頷いて)うん、うん! あたたかい丘の上に、僕たちのお家があったんだよ。
お花の季節になると甘い香りがふわっと漂ってきて、ピンク色のカーテンのすきまからお部屋に入ってきたんだ。そしてね、緑色と金色で羽を飾った小さな鳥たちが、丘の草原やレモンの木の間、それから窓の外の手すりで、いつでもピヨピヨ鳴いていたっけね。

お姉様 そのお家にいた頃、お前の一番楽しかった思い出ってどんなこと?

少年 楽しかったこと……?

お姉様 今でも忘れられないくらい楽しかったことって何だろう? おしえてごらん。
……お姉様に聞かせてよ。

少年 楽しかったことはいろいろあったけど、なんだかみんな忘れちゃったな……。
でもね……。

お姉様 うん、なになに?

少年 ただね、ふたつだけ覚えていることがあるんだ。

お姉様 ふたつも! まあ、それはどんなことなの?

少年 うーん、それはね、実は楽しいことじゃないんだ。

お姉様 じゃあ、悲しいことだったのかい?
悲しいお話なら、もうおしまいにするよ。

(ちょっと間があって)お前がここへ来てしまったからには、これからはもう悲しいことや寂しいことばかりが、ずっと一生つづいていくんだもの……。
……わざわざ昔の悲しい思い出まで、思い出さなくてもいいんだよ。

少年 ううん、お姉様ちがうよ! 悲しいお話でもないんだ。
ただ、どうしても忘れられないことなんだよ。
うん、たしかに少しは悲しいことだけれど……。
……それはね、僕が本当に小さかった頃のお話なんだ。
ある日ね、僕はゆりかごに乗ったまま、お庭のどこかにぽつんと置かれていたんだ。
僕の頭の上には、大きくて広い青い幕が、丸く一面に広がっていたんだよ。

お姉様 それはきっと、晴れわたった綺麗な青空だったんだね。

少年 あっちからもこっちからも、可愛い声で僕を呼んだりご挨拶したりしながら、きれいな色の生き物たちが飛び回っていたんだ。

お姉様 それはね、小鳥たちが花の間で鳴いていたんだよ。

少年 僕はじっとだまってその声を聞いていて、いい香りの風が僕のほっぺたをなでていくのを感じていたんだ。
……僕は親指を口にくわえて、ちゅうちゅう吸いながら、目を細めてぼんやりしていたんだよ。でもね、なんだかすごく寂しかったんだ。
だってね、僕のそばには誰もいなかったから。いつも僕を眠らせてくれたり、やさしいお顔でほっぺたにキスして可愛がってくれた優しい女の人も、その日に限って誰もいなかったんだ。
僕はたったひとりでお庭にぽつんと置いていかれていたんだよ、お姉様。

お姉様 それからどうしたの?

少年 そのうちにね、僕は急にめそめそ泣き出しちゃったんだ。

お姉様 どうして泣いちゃったんだろうねぇ。

少年 それはね……。
真っ黒ですごく大きな幕みたいなものが、僕の体の上へふぁーっと覆いかぶさってきたからなんだ。
……四方が急に薄暗くなって、あんなに優しかった歌も、きれいな色も、ぜんぶいっぺんに消えちゃったんだよ。
……だから、僕泣いちゃったんだ。

お姉様 まあ、それからどうなったの?

少年 そのうちにね、僕は庭からお部屋へ連れていかれたんだ。
……お姉様! そのお部屋の中には、何があったと思う?

お姉様 さあ……お姉様には分からないな。

少年 四角いものがあったんだよ!

お姉様 四角いもの?

少年 そう、白い布がかけられた、四角いものだよ……。
……その上にね、誰かが眠っているんだよ。お姉様 ああ、病気の人用のベッドだよ。
少年 その上に人が寝ているのよ。
……冷たい顔をした人が寝ているのよ。
……その人はね、いつもやさしい歌を歌ってぼくを眠らせてくれたり、ぼくのほっぺたにそっとキスして可愛がってくれた女の人なのよ。
ぼくは、その人に抱っこされているときが一番安心できたんだ。
一番強い気持ちになれたんだよ。
……その人が、青くて冷たい顔をしてベッドの上に寝ているんだ。
その人のまわりを囲んで、たくさんの人が泣いている。
お部屋の中は、シーンとしていてとても寂しいのよ。
そして四方が真っ暗なんだ。
窓からはね、黄色いお日様がちょっとのぞいているだけで……。
お姉様 (すべてを察したように)ヨハナーンや!
少年 その日から、ぼくはもうそのやさしい女の人に会えなくなったんだ。そして、なんだか心にぽっかり穴があいたような、物足りない気持ちがずっと続いていたんだよ。
お姉様 ヨハナーンや、それはね……。
少年 お姉様、ぼくはどうしてもその日のことが忘れられないんだよ。
お姉様 それはねぇ、ヨハナーンや、お母様がお亡くなりになった日のことだよ。
少年 (何かを深く考えているような様子――まるでお大人のような、ぴりっと引き締まった表情。
少し長い沈黙のあと)それからね、もう一つあるんだ。
……どうしても忘れられないことが。
お姉様 お話ししてごらん?
少年 それはねぇ、お姉様。
(といってお姉様の顔をじっと見つめる)
お姉様 どんなことなの?
少年 (声をひそめて、お姉様の顔を見つめたまま)あのお舟よ!
お姉様 お舟だって?
少年 灰色のお舟よ!
お姉様 (声を出さず、じっと考え込む)
少年 お姉様を遠いところへ連れていったお舟だよ。

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