初級翻訳・メリイクリスマス 第3話

メリイクリスマス

「陣場さん!」と私は大きな声で部屋に向かって呼びかけた。
はあい、と確かに返事が聞こえてきた。
続いて、ドアのすりガラスの向こうで何かの影が動いた。
「おっ、いる、いるぞ。」と私は言った。
すると娘は棒のように立ち尽くし、顔からすーっと血の気が引き、下唇をぶるぶるで見苦しくゆがめたかと思うと、突然おいおいと泣き出してしまったのだ。
お母さんは、あの広島の空襲で亡くなってしまったのだという。
死ぬ間際のうわごとの中で、私の名前も呼んでいたそうだ。
娘はひとりで東京へ戻り、母親の親戚である進歩党の代議士の法律事務所で働いているのだという。
お母さんがすでに死んでしまったということを、どう言い出せばいいのかタイミングを逃してしまい、どうしていいか分からないまま、とにかくここまで私を案内してきたのだという。
私が途中でずっとお母さんの話を持ち出したとき、シズエ子ちゃんが急に暗い顔になったのは、そういうわけだったのだ。
焼きもちなんかじゃなかった。
恋心なんかでもなかったのだ。
私たちは部屋に入るのをやめ、そのまま引き返して、駅の近くの賑やかな繁華街へとやってきた。
お母さんは、うなぎが好きだった。
私たちは、うなぎ屋の屋台の暖簾をくぐった。
「いらっしゃいまし!」
 客は、行き交う客を含めても私たち二人だけで、屋台の奥のほうに腰かけて酒を飲んでいる紳士がひとりだけいた。
「大串になさいますか、それとも小串にしますか?」
「小串を。三人前頼むよ。
」
「へえ、かしこまりました!」
 若い店主は、いなせな江戸っ子といった雰囲気だった。
バタバタと勢いよく七輪のうちわをあおぐ。
「お皿は、三人分、それぞれ別々にしてくれ。
」
「へえ。
もうひと方いらっしゃるんですか? あとから来るのかな?」
「ここに三人いるじゃないか。
」私は笑わずに真面目に言った。
「へ?」
「この子と、僕とのあいだに、もうひとり、心配そうな顔をしたべっぴんさんが座っているじゃねえか。
」今度は私も少しクスッと笑って言った。
若い店主は、私の冗談をどう受け取ったのか、
「いやあ、まいったなこりゃ。
」
と言って笑いながら、頭に巻いた鉢巻の結び目のあたりを片手でポリポリとかいた。
「酒はあるかい?」私は左手でグラスを傾ける仕草をしてみせた。
「極上のやつがございますよ。
いや、そうでもねえかな?」
「コップで三つ頼むよ。
」と私は言った。
小さな串に刺さったうなぎの皿が三枚、私たちの目の前に並べられた。
私たちは、真ん中にあるお皿には手をつけず、両端にあるお皿のうなぎにそれぞれ箸を伸ばした。
やがて、なみなみと日本酒が注がれたコップも、同じように三つ並べられたのだった。私は端のコップをとって、ぐいと飲み、
「すけてやろうね。」
と、シズエ子ちゃんにだけ聞こえるくらいの小さい声で言って、母のコップをとって、ぐいと飲み、懐からさっき買った南京豆の袋を三つ取り出し、
「今夜は、僕はこれから少し飲むからね、豆でもかじりながら付き合ってくれ。」と、やはり小声で言った。
シズエ子ちゃんはうなずき、それっきり私たちは一言も、何も言わなかった。
私は黙々と四杯五杯と飲み続けているうちに、屋台の奥の紳士が、うなぎ屋の主人を相手に、やたらと騒ぎ始めた。
実につまらない、不思議なくらいに下手くそで、まるっきりセンスのない冗談を言い、そうしてご本人が一番面白そうに笑い、主人もつきあいで笑い、「トカナントカイッチャテネ、ソレデスカラネエ、ポオットシチャテネエ、リンゴ可愛イヤ、気持ガワカルトヤッチャテネエ、ワハハハ、アイツ頭ガイイカラネエ、東京駅ハオレノ家ダト言ッチャテネエ、マイッチャテネエ、オレノ妾宅ハ丸ビルダト言ッタラ、コンドハ向ウガマイッチャテネエ、……」という調子の、何一つ面白くも可笑しくもない冗談がいつまでもペラペラと続き、私は日本の酔客のユーモア感覚のなさに、今さらながらうんざりして、どんなにその紳士と主人が笑い合っても、こちらはにこりともせずに酒を飲み、屋台の脇を通る師走近い人の流れを、ぼんやり見ているばかりなのである。
紳士はふいと私の視線をたどって、そして私と同様にしばらく屋台の外の人通りを眺め、だしぬけに大声で、
「ハロー、メリイ、クリスマアス。」
と叫んだ。
アメリカの兵士が歩いているのだ。
何というわけもなく、私は紳士のその洒落にだけは吹き出した。
呼びかけられた兵士は、とんでもないというような顔をして首を振り、大股で歩み去る。
「この、うなぎも食べちゃおうか。」
私は真ん中に取り残されているうなぎの皿に箸をつける。
「ええ。」
「半分ずつ。」
東京は相変わらず。
以前と少しも変わらない。

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