初級翻訳・二十四の瞳 第22話

二十四の瞳

危険防止の土手は地面から三尺ほどの高さでめぐらしてあったが、土手はあまり用をなさず、子どもらはわずかな遊び時間をもかってに石垣をつたって、川の中へおりていった。
おもに男の子だった。
川上に家は一軒もなく、ちろちろの水はきれいだった。
山から流れてきてはじめて、ここで人の肌にふれる水は、おどろくほど、つめたく澄みきっていた。
子どもらにとっては、ただ手足をふれているだけで、じゅうぶん満足のできる、こころよい感触であった。
水はここではじめて人の手にふれ、せきとめられて濁った。
だれがいいだしたのか鰻がいるという噂がたってから、子どもたちの熱意は川底に集まり、毎日土手の見物と川の漁師とのあいだで時ならぬやりとりがつづいた。
川床の石をめくっては、まだ一度もとれたことのない鰻をさがしているのだが、出てくるのは蟹ばかりである。
それでもけっこうおもしろいらしく、漁師も見物もふえるばかりだった。
くるぶしをかくしかねるほどの水量は、遊び場としても危険はなく、だから小石先生もだまって眺めていた。
「せんせ、ズガニあげよか」
保護色なのか泥色をして、足にあらい毛のある蟹をつかまえて、うで一ぱいさし出したのは森岡正だった。
「いらん、そんなもん」
「たべられるのに、せんせ」
「いやだ、そんなもんたべたら、足や手にヒゲがはえるもの」
川底と土手からどっと笑い声がおこった。
窓ぎわの先生ももちろん笑いころげたのだが、ついさっきまでの先生は、そんな笑いとは遠い気持で、窓の外にくりひろげられた風景を眺めていたのであった。
川の中でも土手の上でも、岬の子どもらは知らずしらずかたまっていた。
だが、そこに松江の姿は見ることができない。
その目に見えぬ姿が、ときどき先生の心を占領してしまうのだ。
母親がなくなってから、松江は一度もこの教室に姿をあらわさなかった。
窓ぎわの、前から三番目の松江の席は、もう二か月もからっぽのままである。
入学の日のことを思いだして、百合の花の絵のついた弁当箱をみやげに松江の家をたずねたのは、彼女の母親がなくなってからひと月ぐらいたっていた。
ちょうど川本大工も家にいて、男泣きに泣きながら、赤ん坊が死なないかぎり、松江を学校にはやれぬといった。
あまりに事情が明白なので、それでも松江を学校によこせとはいえず、だまって松江の顔をみた。
小さな赤ん坊をおぶったまま、父親のわきにちょこんとすわって松江もだまっていた。
へんにまぶたのはれて見える顔は、頭のはたらきを失ったようにぼんやりしていた。
その膝の上へ、
「マッちゃん、これ、百合の花の弁当箱よ。あんたが学校に来られるようになったら、使いなさいね」
あまり嬉しそうにもせず、松江はこくんとうなずいた。
「早く、学校に来られるといいわね」
そう言ってしまってから、小石先生はハッとした。
それは、赤ん坊に早く死んでほしいと言っているようなものだったからだ。
思わず顔が赤くなったが、松江たち父子にははっきりと響かなかったようで、ただ感謝のまなざしでそれを受け取った。

まもなく、赤ん坊が亡くなったと聞き、松江のことを思えばホッとしたのだが、肝心の松江はなかなか姿を見せなかった。
マスノやコトエたちに様子を聞いても埒が明かず、先生はついに手紙を書いた。
十日ほど前のことだ。

――松江さん、赤ちゃんのユリエちゃんは、ほんとうにかわいそうなことをしましたね。
でももうそれは仕方がないから、心の中でかわいがってあげることにして、あなたは元気を出しなさいね。
学校へは、いつから来られますか。
先生は、毎日マッちゃんのからっぽの席を見ては、マッちゃんのことを考えています。
早く来い来いマッちゃん。
早く来てみんなといっしょに、勉強しましょう。――

手紙は、松江の家ともっとも親しいコトエに託した。
しかし、この手紙が松江にとってどれほど無理な頼みであるかを、先生はよく知っていた。
赤ん坊のユリエはいなくなっても、松江にはまだ下の弟と妹が二人いた。
五年生になったばかりの彼女は、幼い頭脳と小さな体で、無理やり一家の母親役を背負わされているのだ。
どんなにそれが嫌でも、そこから逃げ出すことはできない。
父親を働きに出すために、小さな松江がかまどに火をくぐらせ、洗濯もしなければならないのだ。
ヒヨコのようにきょうだい三人で寄り添い、父親の帰りを待っているであろう哀れな姿が、先生の目の前にちらついた。
法律はこの幼い子どもを学校に通わせることを義務づけてはいるが、そのために子どもを守る制度はどこにもないのだった。

翌日、コトエは先生の顔を見るなり報告した。
「先生、昨日マッちゃんの家へ手紙を持っていったら、知らないよそのおばさんが来ておったんよ。
『マッちゃんおりますか』って言ったら、『おりません』って言うん。
しかたがないから、『これマッちゃんに渡してください』って、そのおばさんに頼んできたんよ」
「そう、どうもありがとう。
マッちゃんのお父さんは?」
「知らん。
見えなんだ。
――そのおばさん、おしろいをつけて、きれいな着物を着とったんよ。
マッちゃん家に後妻(およめ)にきたんとちがうかって、小ツルさんが言っとったよ」
コトエは少し照れ笑いをした。
「そうだったら、マッちゃんも学校へ来られていいんだけどねえ」

それからまた十日以上が過ぎたが、松江は姿を見せなかった。
手紙は読んでくれただろうかと、ふと心に影を落としながら、先生は窓の下を眺めていたのだった。
ズガニ(沢蟹)を三匹つかまえた正(しょう)は、それを空き缶に入れて得意満然と石垣をのぼってきた。
三角形の空地にある杏の木は夏に向けて青々と繁り、土手の上に黒い影を落としている。
その真下にかたまって、岬組の女の子たちはズガニをかかえた正を迎え、我先にと叫んだ。
「タンコ、一ぴきくれなァ!」
「うちにも、くれなァ!」
「わたしにもな!」
「約束ど!」

蟹は三匹しかないのに、欲しがる人間は四人いた。
正は考え込みながら石垣をのぼってきて、
「食うのか、食わんのか」
と、みんなの顔を見まわした。
本当に食べるやつにやろうと思ったのだ。
いち早く小ツルが叫んだ。
「食う食う! 月夜の蟹は、うまいもん!」
それを聞くと、正はニヤリと笑い、
「嘘つけえ! 蟹がうまいのは闇夜のことだぞ」
「嘘つけえ、月夜じゃないか!」
「ああ聞いた、あ聞いた! 月夜の蟹はやせていて、うまく(美味しく)ないのに!」
正が自信満々で言うと、小ツルも負けじと言い返す。
同じように正の口真似をして、
「ああ聞いた、あ聞いた! 月夜の蟹がうまいのに! ためしに食うてみるから、みんなちょうだい!」
「いや、こんな川の蟹でわかるもんか。海の蟹じゃあるまいし」

それを聞くと女の子たちはわあわあ騒ぎ立て、窓のなかの先生に向かって口々に尋ねた。
「せんせ、月夜の蟹と闇夜の蟹と、どっちがおいしいん?」
「先生、月夜じゃなあ!」
マスノや小ツル、ミサ子たちだった。
「さあ、どうかしらねえ。
闇夜のような気もするけれど……」
男の子たちがわっとわき立った。

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