初級翻訳・二十四の瞳 第41話

二十四の瞳

「先生、もしも自転車をお買いになるんでしたら、ご相談にのりますから」
それがどういう意味なのか聞き返す暇もなく、大吉の舟は急にスピードを上げて近づいてきた。
陸地の影に入って、風が止んだのだろう。
大吉は母親だけにちらっと笑いを見せ、そっぽを向いてすましていた。
水棹(みさお)を押していつもするように舳先(へさき)を砂浜に寄せ、母親が乗り込むのを待っている大吉の横顔に、いつもとは違う言葉が真っ先に飛んできた。
「さあ、坊ちゃん、つかまえてますから、あがってらっしゃい」
驚いて振り返った大吉に、今度はおおたしせんせいが笑いかけ、
「大吉、ひと休みしたら?」
だまって首を横に振る大吉へ、さらに重ねて、
「ちょっとお母さん、この方にお話しがあるの。
だから、そのあいだだけ待って」
大吉は怒ったような顔をして、だまったまま浜辺に飛び降りた。
大きな石にとも綱を結ぶのを待って、
「大吉も、ここへおいで」
大吉もいる前で、ミサ子に自転車の話を聞きたいと考えたのだが、もうそのことはすっかり忘れたような顔をしているミサ子と、大人っぽく膝を抱えて沖を見つめている大吉との間に挟まれて座ると、どうしたことか自転車のことは口に出したくなくなってしまった。
一体どんな方法がミサ子にはあるというのだろうか。
いずれは、お互いの心を汚す結果になるほかないとわかるような気がしたからだ。重苦しい雰囲気を打ち消すように、ミサ子は気楽に話し始めました。
「早苗さんとこないだ話したんですけど、わたしたちのクラスだけで、先生の歓迎会をしようかって言ってるんです」
「まあ、うれしいこと。
でも、歓迎していただくほど、わたしが役に立ちますかしら。
ここへ来るまでは、昔のまま元気なつもりでしたのに、実際に来てみると泣けて泣けて……。
泣けることばかりが思い出されて……」
そう言って、先生はもう涙ぐんでいました。
それを急いでぬぐい、しっかりとした気持ちを声の響きに込めて、
「しかしまあ、うれしいことですわね。
クラスのみんなは何人いるの?」
「男の子が二人、女の子が三人です。
でも、女の子の方は小ツルさんやマッちゃんも呼ぼうって話しているんです」
「マッちゃんって、川本松ちゃんのこと?」
「ええ。長年どこにいるのか分からなかったのが、戦争中にひょっこり戻ってきたんですの。
ほんのちょっといただけですぐにまたどこかへ行ってしまいましたけど、マスノさんが居場所を知っているそうです。
マッちゃん、すっかりきれいになっていて、先生、見違えちゃいますわよ」
そう言いながら、ミサ子の顔に少し変な表情が走ったのを、あえて気づかないふりをして、大石先生は一昨日の教室のことを思い出していました。
――ちさとさんは、お父さんもおじいさんも大工さん?
――ううん、大工さんはおじいさんだけ。
――松江さんて、お姉ちゃんでしょ?
――ううん、お母さん。
大阪にいるの。
洋服を送ってくれたんだよ。
松江そっくりの黒い目をきらめかせていた川本千里の姿を。
それについて、ミサ子に詳しく聞く気にはなりませんでした。
しかし、別のことでどうしても聞かずにいられないことがありました。
「それよりさ、富士子さんはどうしているか、何か分からないの?」
ミサ子は松江のとき以上の強い表情を浮かべて言いました。
「あの人こそ先生、まったく行方不明ですわ。
なんでも戦時中に成金の愛人になって出世したっていう噂もありましたけど、どうせ軍需会社関係でしょうし、今はどうなっていることやら……」
知らず知らずのうちに顔に出ていたミサ子の優越感にも、人生の裏道を歩いているらしい松江や富士子のことにも、わざと目を背けるように大石先生はうつむき、自分に言い聞かせるように小声でつぶやきました。
「生きていればまた会うこともあるけれど、死んでしまったらおしまいだものね」
ミサ子もしんみりと声を落として言いました。
「本当ですわね。
死んでから花も実も咲くわけないもの……。
コトやんが死んだのは、ご存じですか?」
黙ってうなずく先生に、ミサ子はたたみかけるように続けました。
「ソンキさんのことは?」
同じようにうなずく先生の目に、またもや涙があふれていました。
磯吉が目を悪くして軍隊を辞めさせられたと早苗から聞いたとき、早苗といっしょに声を上げて泣いた先生でしたが、あのときの悲しみは今も心の底に重く沈んでいます。
早苗がお見舞いに行くと、磯吉は眼帯をした顔を自分の膝につくほど深くうつむかせ、「いっそ死んだほうがましだった」としょげ返っていたそうです。
質屋の番頭になることを夢見ていた彼が、貧しい実家へ戻ってきたときの立場を思うと、死にたいほどつらかった磯吉の気持ちも察せられて一緒に泣いたものですが、今は少し状況が変わってきています。
その後の磯吉が、町のマッサージの修行(あんまの弟子入り)を始めたと聞いて、彼のその遅すぎた人生の再スタートに、先生は心の底からホッとしていたからです。
たった一つの生きる道、その光のない暗黒の世界を、磯吉はこれからどのように生き抜いていくのでしょうか。
しかし、ミサ子は自分の心の狭さをさらけ出すようなことを口にしました。
「たとえ生きて戻ったって、目が不自由じゃ困りますわね。
いっそ死んでしまえばよかったのに」
いったい誰が磯吉をこんな目にしたのか、そんなことはみじんも考えていないようなミサ子の言葉に、もう聞き流して逃げるわけにはいかないと、大石先生は言いました。
「そんなこと、ミサ子さん、どうしてそんなことが言えるの。
せっかく今、自分の足で立ちあがろうとしているのに。
ことにあなたたちは同級生じゃないの」
まるで叱られた生徒のように、ミサ子は慌てて弁解しました。
「でも、だって、ソンキさんは人に出会うと、『死んだほうがましだ、ましだ』って言うそうですもの」
自分の考えの浅さにハッと気づいたように、ミサ子は赤い顔をして言いました。
「それを、かわいそうだと思わないの。
死にたいと言うのは、他に生きる道が見つからないということなのよ。
かわいそうに……そう思わないの?」
「そりゃあ、思いますとも。
かわいそうだって思いますよ。
なんたって同級生なんですもの。
でも、なんだか私たちのクラスって、不幸せな人が多いですよね、先生。
五人の男の子のうち三人も戦死するなんてことがあるでしょうか」
並んで座っていた大吉に肘でツンツンとつつかれて、大石先生はハッと我に返って振り返りました。
六、七人の子どもたちが、すぐ後ろにぐちゃぐちゃな半円を作って取り囲み、珍しそうにこちらを眺めていたのです。
急に振り返られたものだから、子どもたちはまるで飛び立つ鳥のように一斉に走り出しましたが、走りながらこう叫びました。泣きみそ せんせ
泣きみそ せんせ

すぐ後ろの丘の共同墓地のほうへ逃げていくのを見ると、
「ちょっと、お墓へまいりましょうか、ミサ子さん」
「え、水もらっていきましょう」
ミサ子はすぐに立ち上がって小走りに、道ばたの家へ入っていった。
まもなく手桶を持って出てくるのを見ると、大石先生はあごをしゃくって墓地のほうを指さしながら、
「すぐそこ、ほんの十分かそこらだから、まっててね。

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