なあ先生、わたし、あの弁当箱、戦争中は防空壕にまで入れて守ったんですよ。
あの弁当箱だけは、娘にもやりたくないんです。
わたしの宝でしたの。
今日もお米を入れて持ってきたんですよ、先生」
それを聞くと吉次が、あ、そうじゃ、と言いながら、国民服のわきポケットから小さな布袋をとりだし、
「はい、うちの食いぶち」
と、マスノの方へと差しだした。
「ええじゃないかキッチン、おまえ、魚も持ってきてくれたもん」
どうやら今日の会は持ち寄りであるらしいと思いながら、大石先生はしきりに松江の話を聞こうとした。
松江の言う弁当箱とはいったいなんだろうと思ったからだ。
防空壕にまで入れた宝の弁当箱とは。
先生はあの百合の花の弁当箱のことをすっかり忘れていたのだった。
「マッちゃん、弁当箱って、なあに?」
小声で聞くと、松江はびっくりしたような声を出し、
「あら、先生、忘れたんですか。
そんなら持ってくる」
トントンと音を立てて階段をおりていったと思うと、やがてまたトントンと駆けあがってきた松江は、みんなの前に、からっぽの弁当箱を、まるで赤ん坊をあやすように大切そうにしてみせ、
「どうですこれ、わたしが五年生になったとき先生にもらったんですよ皆さん。
どうです、どうです」
わあと歓声があがり、
「先生、見損ないました。
先生がマッちゃんだけにそんなひいきをしたの、知らなかった、知らなかった」
マスノの抗議にまた笑い声があがった。
しかし、先生は涙ぐんでそれを見ていた。
見せられて思いだしたその弁当箱に、いちども弁当をつめて学校へはこなかった松江のことが、修学旅行のとき、桟橋前の小料理屋で、「天ぷらうどん一丁!」と叫んでいた松江の姿が、久しぶりに生きて動いて、いま目の前にいる松江とむすびつこうとしている。
かわいそうだった松江、そのかわいそうさをくぐってきたことを自分の恥のように卑下しているような松江……。
ぼつぼつ料理がはこばれだすと、松江はいち早く立ちあがった。
ビールとサイダーを両手にもって、なれた手つきでついでまわる。
それを見きわめてからマスノが言った。
「さ、先生のために、乾杯!」
マスノはまっさきにコップを干した。
松江がつぐのを続けて干してから、大きなため息をつき、
「ああ、ここに仁太やタンコがおったらなあ。
そしたらもう言うことないですな先生。
ソンキにタンコにキッチンに仁太と、人の好いのがそろっとったのに。
竹一だてら、上の学校へ行きだしてからは少しすましとったけど、人間はよかった。
わたしたちの組、お人好しばかりじゃないですか。
それが、男はみんなろくでもない目にあい、女は海千山千になってしもた。
小ツやんや早苗さんだてら、やっぱり海千山千よ。
ただその筆頭が、わたしとマッちゃんかな。
でもやっぱり、人は悪うないですよ。
苦労しただけ、もの分かりもええつもりです。
ミイさんのような賢夫人や、小ツやんや早苗さんのオールド・ミスのおえら方にはできんことも、わたしらはするもん。
なあマッちゃん、大いにやろう」
そう言って松江のコップにビールを注いだ。
ビールを飲んでいるのは二人だけなのだ。
小ツルははじめから磯吉のそばにすわりこんで、いちいち食べるものの世話役をしているし、松江は松江で、ここが自分の持ち場だというように、こまめに立ったりすわったりして料理をはこんでいた。
昔ながらのおとなしさで、だまって飲んだり食ったりしている吉次とならんで、早苗は吹きだしながら、先生のほうを見、
「ねえ先生、そう思いませんか。
こういうところに出るといちばん役に立たんのは学校の先生だと」
肩をすくめて笑うと、
「わたしこそ」
と、ミサ子がもじもじしたので、そこで笑いが渦まいた。
だいぶ酔ってきたマスノは、磯吉のそばによってきて、コップを手ににぎらせ、
「さあ、ソンキ、あんまになるおまえのために、もう一ぱい行こう」
気がつくと、磯吉ははじめから膝もくずさず、きちょうめんにかしこまっていた。
「ソンキさん、みんな行儀わるいのよ。「あんたももっと楽に座ったらいいのに」
大石先生にそう言われると、磯吉は少し斜めに曲げた首の後ろに手をやり、
「いやあ先生、このほうが実は楽なんです」
と答えた。
質屋の番頭を目指していた彼の十代の頃の正座の苦行は、もうすっかり体に染みついてしまっているというのだ。
彼はいま、三十歳を前にして、今度はマッサージ師としての腕を鍛え上げなければならないのだ。
もうすでにかたくなっている彼の腕が、どこまで一人前のマッサージ師として通用するようになるだろうか。
しかも、それ以外に生きていく道はないのである。
マッサージの師匠は、そういうハンデのある弟子をあまり取りたがらないものだが、マスノの尽力のおかげで、彼のばあいは運よく住み込むことができたという。
その磯吉に対して、マスノはまるで本当の弟に接するような口調で言った。
「お前が目を悪くして故郷に戻ってきたからって、みんなが気を遣って、見えないお前のお目に遠慮してるんだよ、ソンキ。
そんなことに負けちゃダメだよ、ソンキ。
『目が見えない』なんて言われても、平気の平左でいられるようになりなよ、ソンキ」
そう言ってビールを注いだとき、ビールが磯吉の膝にこぼれてしまった。
それを手早く磯吉は飲み干し、マスノにコップを返しながら、
「マアちゃんよ、そんなに目が見えない、見えないって言わないでくれよ。
俺はちゃーんと分かってるんだからさ。
みんな遠慮しないで、写真の話でも目のことでも、大っぴらにしてくれよ」
思わずその場にいた全員が顔を見合わせ、そして笑った。
ソンキにそう言われては、今さら写真の話題に触れないわけにもいかない雰囲気になり、写真ははじめて一人から一人へと手渡されていった。
ひとりひとりがめいめいに感想を言いながら小ツルの手に渡ったあと、小ツルは迷うことなくそれを磯吉の手にまわした。
「はい、みんなで写った一本松の写真だよ!」
お酒の勢いも手伝ってか、いかにも見えているかのような格好で写真に顔を向けている磯吉の姿に、隣にいた吉次は新しい発見でもしたかのような驚きで言った。
「ちっとは見えてるのかい、ソンキ」
磯吉はクスリと笑いだし、こう言った。
「目玉なんかないんだぜ、キッチン。
それでもな、この写真は見えるんだ。
ほら、真ん中のこれが先生だろ。
その前に俺と竹一と仁太が並んでる。
先生の右側のこれがマアちゃんで、こっちが富士子だ。
マッちゃんが左の小指を一本だけ残して、腕を組んでる。
それから――」
磯吉は確信を持って、その並んでいる級友のひとりひとりを人さし指で押さえてみせるのだったが、指し示す場所は少しずつずれていた。
相槌を打てない吉次に代わって、大石先生が答えた。
「そう、そう、その通りよ、その通り」
明るい声で呼吸を合わせた先生の頬を、一筋の涙が伝った。
みんなが静まり返ったなかで、早苗がふと立ち上がった。
酔っ払ったマスノはひとりで手すりにもたれかかり、歌を歌い始めた。
「春陽うららの花のかげ
めぐる盃かげさして」
自分の美しい声に聞きほれているかのように、マスノは目を閉じて歌った。
初級翻訳・二十四の瞳 第44話
二十四の瞳
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