そして頼子(よりこ)夫人の実家は、何代も前からこのご家老と親戚づきあいをしていました。そのため、この広大なお屋敷は、いつの間にか夫人の実家の持ち物になっていたのです。
頼子夫人の実家は、ここから六里半(約25キロ)ほど離れた「吉浦(よしうら)」という海沿いの町にあり、県内でもいちばん大きなお網元(おあみもと=漁業の親分)でした。夫人にはもう両親もおらず、たった一人の優しいお兄さんが家を継いでいました。
けれど、そのお兄さんも自分の仕事がとても忙しくて、こんな山奥の、古くさい大きなお屋敷に住むわけにはいきません。
そのため、長い間ずっと雨戸を閉めきったまま、ほったらかしにされていました。
そこへ、病気をした夫人が郷里へもどってきて、
「あの家にお引越ししたいの……お兄さま、わたしに貸してくださらない?」
とお兄さんに頼んだのです。
するとお兄さんは、
「ばかなことを言うな、あんなところに住んでごらん、夜になるとキツネが鳴き出すような寂しい所だぞ!」
と、はじめはまったく相手にしませんでした。
「それよりもっといい場所に、新しく家を建ててあげるよ。そこでゆっくり体を休めなさい」
けれど夫人は、新しい家を建ててもらうことよりも、なぜかこの「山茶花屋敷」のことばかりが頭から離れなくなってしまったのです。
今になって思えば、もうその頃から、夫人のまわりにはあやしい影が忍び寄り始めていた証拠だったのかもしれません。
とにかく、夫人のように胸の病気をわずらっている病人にとっては、この山茶花屋敷ほど、療養にぴったりの場所はありませんでした。
はるか大村湾(おおむらわん)の景色を一望でき、遠くにはうすむらさき色にかすむ島原半島(しまばらはんとう)の山々が見渡せます。小高い丘を背にして、庭は広く木々に囲まれ、日当たりもバツグン。これほどうってつけの場所はありません。
それに、博士も「それがいい」と大賛成したので、お兄さんもついに、ここに住むことを承知してくれたのです。
そして、玄関のとなりに診察室と待合室をつくり、裏庭の池に面した築山のかげには、夫人のために新しく洋風の寝室を建て増ししました。
お兄さんは、妹夫婦のために、自分の家で使っていた「吉蔵(きちぞう)」という力持ちの車夫と、「おもと」という忠実な女中を世話してよこしてくれました。それでもまだ心配だったのか、「夜は物騒(ぶっそう)だろう」と、何万円ものお金をかけて土佐からとりよせた、「五郎丸(ごろうまる)」という強そうな番犬まで連れてきてくれたのです。
そんなわけで、もともと近所で有名だった侍小路(さむらいこうじ)の山茶花屋敷に、「最近、吉浦のお網元さまの美しい妹御(いもうとご)さまがお引越しされてきたらしい」「ご主人さまは東京の大学のえらい先生で、お医者さまなんだって」と、あっという間に近所中のウワサの的になったのでした。そして、お医者さんに診てもらいにやってくる患者さんという患者さんが、診察が終わった帰り道、「どれ、山茶花屋敷のお庭でも見て帰ろうかな」と、奥の庭から、なかには書院のほうまで遠慮なくずんずんとのぞき込んでいくのでした。
この田舎の人たちの無作法を、博士も夫人も、いちいち気にしてばかりはいられず、ただ苦笑するほかありませんでした……。
そうした無作法な習慣を見慣れていたばかりに、いまあのあやしげな老婆が、夫人の居間をのぞき込んだと聞かされたときも、博士も夫人も、それほど深くは気に留めずにいられたのです。
さて、その翌日、博士は長崎の医科大学の会合に出席するため出かけていました。町の停車場まで戻ってきて、迎えに来ていた吉蔵の人力車に乗ったのは、もうかれこれ午後五時すぎくらいになっていたかもしれません。
停車場から博士の屋敷までは小一時間くらいの道のりで、そのころには、夕方を知らせる鐘が近くのお寺から鳴り響き、町にはあかりが灯っていました。
きのうからずっと、この地方特有の南風が激しく吹きまくっているせいか、町の商店はどこも大戸を閉ざしていて、通りには人影ひとつ見当たりません。
そのひっそりとした夕方の田舎道を、幌を下ろした人力車で走るうちに、いつの間にか町を抜けて、村の入口の石橋を渡ると、あたりはすでに収穫のすんだ広々とした田んぼが広がっていました。
やがて人力車の進みがだいぶ遅くなり、吉蔵の吐く息が「ハァ、ハァ」と苦しげになってきたのは、お屋敷へと上るゆるやかな坂道にかかってきたからなのでしょう。
この坂さえ上りきってしまえば、山茶花屋敷はもう目の前なのです。
そのときでした。
「あっ!」
と、吉蔵がいきなり車を止めました。
「ど、どうしたんだ、吉蔵!」
「だ、旦那さま! た、大変なものが飛んでいきやした!」
「飛んだ? 何がだ?」
「ひ、人魂が……と、飛んでいきやしたが……」
「バカを言うな! あんなものは人魂なんかじゃない! くだらないことを言わずに、早く進んでくれ!」
もちろん、博士も、いま暗い空に光を放ちながら、長い尾を引きつつ、右手の藪陰の墓場へと消えていくものを見ていました。
しかし、いまどきの世の中に、いったい人魂などというものがあるでしょうか? 医学者である博士は、そんなオカルトめいたものを信じてはいなかったのです。
するとその瞬間、今度は博士のほうが「あっ!」と、思わず声をあげそうになりました。
なんとその刹那、音もなく人力車の幌がめくられ、ジロリと博士の顔を見上げたものがあったのです!
それは、やせ衰えた真っ青な額に、だらりと垂れ下がったバサバサの髪! 赤ん坊をおぶった、恐ろしい目をした――
昨夜のあの老婆でした!
しかし、声をあげる間もなく、幌は何事もなかったかのようにパタリと下ろされました。
その直後です。
「あ、いけねえ!」
と、こんどはガクンと前のめりに人力車が止まりました。
「ど、どうしたんだ、吉蔵!」
「う、動かねえですだ! 誰かが車をうしろから押さえてやがります!」
五郎丸の死
なるほど、吉蔵が必死の力をふりしぼっているにもかかわらず、人力車はまるで大地に根が生えたように、ビクとも動きません。
とすれば、いま車をのぞき込んだあの老婆が押さえているというのでしょうか!
けれども、あんなやせ細った腕に、それほどの力があるとは思えません。
「一体だれだ! 車のうしろにいるのは! バカな真似をしていると、ただじゃ置かんぞ!」
とっさにそう思いつき、博士は暗闇に向かって声を張り上げました。
するとその途端、「タタタタ」と、まるで力が抜けてしまったかのように二、三歩よろめき、吉蔵はガックリと膝をついてしまいました。
けれど、さすがは長年車夫を務めあげてきた吉蔵です。
「だ、旦那さま、し、しっかりとつかまっていてくだせえ!」
そう叫ぶと、そのままガラガラと坂を駆け上がり、とうとう門内の砂利道まで一気に引き込んだのです。
そして、
「旦那さまがお帰りだ!」
と叫ぶなり、その場にへたり込んで、肩でハーハーと激しく息をしています。
しかも、
「あなた!」
とその声に飛び出してきた夫人の顔も、看護婦である平松の顔も、血の気が引くほど真っ青に青ざめていたのです。
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