初級翻訳・亡霊怪猫屋敷 第12話

亡霊怪猫屋敷

「お前はまだ若いのだから、なるべく藩中のお偉方から憎まれないようにしなさい」という母の忠告があったからこそ出てきたというのに、このわがままな家老め! 見えすいたお世辞ばかり並べ立てて! という反感がこみ上げてきたのです。
また心の底では、昔の家柄をたどれば大村の殿さまとて主君であるのに、そのまた家臣である家老の左近将監風情が、年若いからといって侮り、一度ならず二度三度までも屋敷へ呼びつけるとは無礼千万、自分は碁打ちを商売にしている人間ではないぞ! という怒りの感情が渦巻いていたのかもしれません。
少年は無言で碁盤に向かうと、黙々と白石(または黒石)を手に取りました。
ただ手に取ったのではありません。
自分の実力の違いを思い知らせて、二度と再び自分を呼びつけることができないように、思い切り徹底的に打ち負かしてやろうと心に決めていたのです。そのため、その闘志は自然と少年の目や顔に表れてきました。
パチリ、パチリと、一言も発せずに打ち込んでいく、その気迫のすさまじさといったらありません!
「ほほう! 今日の小金吾殿は、だいぶお手荒いご様子だな!」
と、はじめのうちはタバコを吸ったりお茶を飲んだりして、ゆったりと打っていた左近将監もさすがにびっくりして、飲みかけた湯呑みを下に置きました。
そして、自分の顔を見上げ、ニヤリと冷たい笑みを唇に浮かべたまま一言も喋らない少年の、玉のように美しい顔立ちに目を走らせたとたん、ハッとしたように、この家老も姿勢を正しました。
「ほう、そういうことか! なるほど、わかったぞ……と。
……よろしい、よくわかった……と。
勝負はどこまでいっても、勝負でござる。
情けも容赦も、無用ということでござるな。
よろしい、拙者もそのつもりでかかろう!」
と、もうお茶にもタバコにも手を伸ばさなくなりました。
いいえ、手を伸ばさなくなっただけではありません。
一局また一局と、だんだん負けが込んでくるにしたがって、またあの悪い癖(癇の虫)が高ぶってきたのでしょう。
次第次第に左近将監の顔色が変わってきました。
自分で考えだしたはずの秘策などもはや何の役にも立ちません。
「九州の麒麟児」と謳われるこの天才少年にかかっていえば、城代も家老も赤ん坊も同然の存在です。
まるで手玉にとられるようにあしらわれ、相手がまだ十六、七歳の子どもだということすら忘れ、そのいかつい大きな顔に大粒の汗をかき始めました。
「よろしい! そう来るか! ならば、拙者はこうしてやろう……!」
左近将監は、四十いくつという分別盛りの城代家老ともあろう者が、相手がまだ子どもであることも忘れ、苦戦に陥ると、頭の上からポッポと湯気を立ちのぼらせ始めました。
顔は真っ赤に燃え上がり、目は血走り、もって生まれたかんしゃく癖を必死にこらえながらうなり声を上げ、さっきからじっと唇を噛みしめて盤面をにらみつけているのです。
日はとっぷりと暮れ、時刻はもはや夜の十時ごろ(亥の刻)になっていたのかもしれません。
行灯(あんどん)にも燭台(ぼんぼり)にも灯火がパチパチとまたたいています。
そしてそばにはご馳走の並んだ膳が置かれ、お銚子が主人の帰りを待ちわびるようにぽつんと置かれています。
さっきから女中の藤や八重が、何度も様子を見に来ているのですが、二人はとても箸をつけられるようなピリピリした雰囲気ではありません。
その様子にあきらめて、台所の方へと引っ込んでしまったのでしょう。
あたりはひっそりとして、草むらで鳴く虫の声だけがただ聞こえるばかりです。
そして少年のほうもまた、自分の思い描いていた思惑が外れたのか、さっきとは違ってだいぶ焦っている様子がその美しい顔にただよっています。
「たて続けに負かしてやれば、相手もこりて、適当なところで切り上げてくれるだろう」と思っていたのに、左近将監のしつこいことといったらありません! 「もう一局、もう一局」とねだってきて、終わりがないのです。
「さあ、御家老! そういつまでも考え込んでいられても、きりがありません。
だいぶ夜もふけましたし、母も待っておりますので、私もこのあたりでそろそろ失礼したいと思います。
……さあ、早く石をおろしてください! もう勝ち負けは目に見えているではありませんか!」
しかし、碁に夢中になりすぎて我を忘れている家老には、この少年の言葉も耳に入りません。
「どこへ石をおろそうか」と、二本の指の間に石を挟んだまま、途方に暮れているのでした。考えに考えて、やっとパチリと一石……と、間髪をいれず少年の石がパチンとひとつ!
「あっ!」
と、家老がさけびをあげました。
「そ、その石だけは、ちょっと待ってもらいたい! ちょっと……その石だけは!」
「なりませぬ!」
と、少年はひややかに、いいはなちました。
「さ、つぎをお打ちください」
「ちょ、ちょっと、待ってもらいたい……そうせかされても……」
左近将監の小鬢からは、あぶら汗がたれてまいります。
「では、ここへおろすか……」
間髪をいれず、また少年の石が、パチンとひとつ!
「あっ!」
と、家老がいそいでその石をとりのけようとしたとたん、少年は顔色かえて、無言のまま刀をひきよせました。
「御家老! てまえは、これで失礼をいたします」
「な、な、なんとめさるこの一局をかたづけずに?」
「さよう! 卑怯なかたのおあいては、てまえには、つとまりかねます」
「ひ……ひ、卑怯とは……?」
「さようではござりませぬか! てまえの打った石におどろいて、すでにお打ちになったごじぶんの石をとりのけようとは、卑怯ではございませぬか」
「しかし、まだ石を打たぬのだから、さしつかえないではないか! 拙者が石を打ちおろさぬうちに、そこもとが打ちおろされた。
いわば、はやまってそこもとが打ちおろされたも同然……拙者、とりのけたからとて、いっこうさしつかえないと思うのじゃが」
「恥をお知りなされませ、御家老! 若年とあなどっておいいくるめなされますか! 戦場で弓矢をあわせながら、敵のいきおいにおどろいて、あわてて軍勢のたてなおしをなされますか? 卑怯未練なおかたのおあいては、てまえにはつとまりかねます」
「…………」
理の当然のことばに、かえすことばもなくさしうつむいたとたん、
「ごめん!」
と少年は刀をひっさげて立ちあがりました。
「さようか……ぜひもござらぬ!」
と、しかたなく左近将監も立ちあがりましたが、たださえ癇癪のつよい性質、おまけにさっきから負けつづけてムシャクシャしているところへ、卑怯者恥をしれ! と少年にののしられたことばがよっぽど身にこたえたのでしょう。
くちびるをかみながら、無言でたちあがことを見おくろうとしたその顔が、とつぜんに朱をそそいだようにまっかに燃えあがったとみた一刹那、もはや勝敗にまったく目がくらみきっていたのでしょう。
「ウヌ暴言思いしったか!」
とばかり、背後からいきなり抜き打ちにバサッと、けさがけに肩から切りおろしました。
サッと血は天井にも欄間にもしぶいて、少年は二足三足よろめきましたが、さすがは名門の若君、重傷にもめげず、全身紅にそまりながらも刃を抜きあわせました。

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