初級翻訳・亡霊怪猫屋敷 第38話

亡霊怪猫屋敷

そしてきょうあすと、トラックを吉浦へかよわせれば、あすの晩までにはもうこの家も、ひっこすことができるだろうと思われましたが、このすさまじい事件のおこったのは、ちょうど家のなかがそういう、大混雑のまっさいちゅうではなかったかと思われます。
しかもいまになって考えれば、この執念深い怪猫の怨霊は、すでに博士一家の退散のけはいを感づいて、いちはやく夫人の頼子の上へ、そのくらい手をさしのべていたのかもしれませんが、ともかく午後の四時ごろだったのです。
看護婦の笠井が、患者の治療をしていられる博士のところへ、あわただしくとんできました。
「先生! おもとさんやみんなが、もうこまりきってるんですけど……ちょっといらしてみていただけませんでしょうか」
「どうしたんだ?」
と、博士は平松に手つだわせて、患者の患部へ罨法をほどこしながらふりむかれました。
「あの……奥さまが……なんだか妙なことをなさいまして……」
「なに頼子が?」
と博士は、患者をおいてつかつかと、診察室の戸口のところまで出てこられました。
「どうしたんだ、頼子が?……はやくいわないか? 笠井くん!」
「奥さまが、さっきあの西のお離れへおはいりになりましたっきり、でていらっしゃらないって、もうおもとさんたちがこまっているんです」
西の離れというのは、昨夜博士が貼りのこされた、例の将監の居間だったのです。
「あんなところへいく用がないじゃないか」
「でも……もう三十分もまえに、あの部屋へおはいりになったっきり、でていらっしゃらないってみんなさわいでいますんです」お部屋に入るときも変なことを言っていたよ、「たいせつな用があってよばれているから、あの部屋までいって話をしてくるけれど、あとからうしろをついてきたらゆるさないよ!」って、怖いお顔をしておもとさんをにらみつけたんだそうです。
そしてお部屋に入ってから、ごじぶんの手であの離れの戸をなかからピシャリとしめて……いつまでたっても出ていらっしゃらないものだから、みんな今ごろになって大さわぎしているんです」
「もう半時間も、あの部屋に入っているだって? なぜもっと早くぼくに知らせにこなかったんだ? たいせつな用によばれたって? いったい、だれによばれたというんだ?」
 と、博士もまゆをひそめながら、患者をそのままにして長い廊下を歩き、その離れ座敷のまえまで来てみました。するとたしかに、丈夫な戸のまえでは、おもとや吉蔵たちがオロオロとどうしていいか分からずに立ちすくんでいます。
「ご主人さま! 奥さまが変なことをおっしゃって……なかからカギをかけちゃったんです……」
「なぜ、よんでみないんだ……?」
「いくらよんでも、お返事をなさらないんです」
「おい頼子! 頼子!」
 と、博士は大声をだしました。
ドンドンドンドンと、戸をたたいてみましたが、戸のなかはシーンと静まりかえって、何の返事もありません。
「だれもいないんじゃないのか?」
「いいえ、たしかにお入りになって、なかから戸をおしめになったんです……もう三、四十分もまえに、こわいお顔をなさって」
「おい頼子! おーい頼子……」
 いくら戸をたたいても、相変わらずなかからは何の返事もありません。
人がいるのかいないのか、ただシーンとしずまりかえっているばかりです。
なるほど、なかからしっかりとカギがかけられているとみえて、おしても引いても丈夫な戸はビクともしません。
「なるほど、カギがかかっている……ハテ、おかしいな、これは」
 そのとき初めて、これまで気にもとめなかった例の魔よけの札を、ここだけに貼り残してしまったことが思いだされました。
そしてその瞬間、サーッと博士の顔色が変わりました。
「これは大変だぞ! おい、おもと! みんなをよんできてくれ!」
 ウウム、ウウムと、出せる限りの力をふりしぼって、もう一度戸に手をかけてみましたが、戸は金輪際動きません。
「よし、吉蔵! やぶってしまえ! どうせこわす家だ、かまわないから戸をたたきやぶってしまえ! みんなも吉蔵に手をかしてやってくれ」
 そのときにはすでに、吉浦からきた八蔵も山吉も与助も、みんなこの部屋のまえに集まっていました。
吉蔵に力を貸そうと、この三人の男たちが戸に手をかけましたが、それでも丈夫な戸はなかなかやぶれそうにありません。
「いけねえ、八蔵! ゲンノウ(トンカチ)を持ってこい!」
 吉蔵がふりあげたゲンノウの一撃で、戸はメリメリと音を立ててやぶれはじめました。
そして、やぶれた隙間に手をかけて、八蔵が戸板をひっぱがします。
続いて与助がもう一枚をひっぱがし、山吉がそのとなりの板をはぎ取ります! そして、長年しめきられていた薄暗い座敷のなかへ、サッと日の光がさしこんだその瞬間、耳をつんざくような絶叫を吉蔵があげました。
「あっ、いけねえ、先生、奥さまが!」
「なに! 頼子が? ど、どうしたんだ?」
 夢中でとびこんだ博士の目に、そのとき飛び込んできたのは、なんとむごたらしい、あさましい頼子の最期だったでしょうか。
そして、なんと奇怪なこの離れ座敷だったでしょうか。
あの美しい顔といわず、手といわず足といわず、全身にするどい引っかき傷をうけて血まみれになった頼子のすがたがそこに後ろ向きにのけぞっていました。しかもその体の上に天井がおちてきたとみえて、そのあたり一面に古い板きれが散らばり、天井にはポッカリと大きな穴があいているのです。
その大穴のところから、のけぞった頼子の上へおいかぶさるようにしてタラリとたれさがった、大きな、まっくろい怪物――!
それは、干からびてコチコチになった、子熊ほどもある大猫の死がいだったのです。
しかも、それだけではありませんでした。
「あっ!」
 と、みんなで息をものみこんで立ちすくんだ、その横手の壁をごらんなさい!
 ああ、これまで死体が見つからなかったわけだ! 今こそ復讐が残すところなくやり遂げられて、これで安心して成仏できるということなのでしょうか? その、頼子ののけぞった横手の壁がパックリとくずれおちて、なんとその中に、百七十年のあいだ塗りこめられていた小金吾の死体が! スッと壁の中に立ちつづけたまま、もはや半分ミイラと化し、やぶれた着物に色あせたハカマ……やせほそった顔に目を閉じた、竜胆寺小金吾のすがたがそこにあったのです……。
あまりにもむごたらしく、あまりにもおそるべきこの場の光景に、「ワァッ!」とさけんだきり、博士も吉蔵も山吉も、八蔵も与助もおもとも、そこにいる全員が顔をおおったまま、その場にくずおれてしまいました。ぼくのお話は、これでおしまいです。
けれど、どうしてこんなにこわくて悲しいお話を、長いあいだ書きつづけてきたのか、この長いお話のさいごに、少しだけお話ししておこうと思います。

いまの時代に、こんなふしぎで、むごたらしいことが本当にあったのだろうか? みなさんは、そう疑うかもしれません。
けれど、これはたしかに実際にあったことなのです。だからこそ、ぼくはふしぎでしかたがなくて、こうして書きつづけてきたのです。
もう隠すことは何もないので、ハッキリと申しあげましょう。

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