そして、その霊がその家のヌシとなり、ザシキワラシなどの姿として残り続けたのだと考えられます。
ザシキワラシなどのことについては、大正13年6月の人類学雑誌に載った佐々木喜善(ささききぜん)氏のお話や、あるいは柳田氏の『遠野物語』などに書かれています。
数年前の「大阪毎日新聞」で読んだのですが、かつて御前(天皇の前)で国の歴史書をご進講(講義)された京都の猪熊(いのくま)先生のご自宅には、由来のわからない婦人の幽霊が時々現れ、新しくやってきた下女などはこの幽霊を家族の一員のように勘違いしてしまうことがあったそうです。
香をたいたり、オナラをしたり、火をつけたり、おしっこをしたりといった生々しいことは一切せず、ただスッと現れるだけのようですが、これもまた「その家のヌシ」についての言い伝えが形を変えて残ったものなのでしょう。
それから、『甲子夜話(かっしやわ)』の巻22には、「大阪城の中には『明ずの間(あかずのま)』という絶対に開けてはならない部屋があり、大阪城が落城したときに女性が自害して以来、一度も開けられたことがない。その部屋に入ったり、あるいはその部屋の前の廊下に寝転んだりする者は、必ず不思議な怪異に遭う」と書かれています。
また、比叡山の行林院(ぎょうりんいん)には「児がや(ちごがや)」という決して開けてはならない部屋があり、ここを開けた者は必ず死ぬとされています。
(柳原紀光(やなぎはらのりみつ)の『閉关自語(へいかんじご)』にあります。)
これは昔、稚児(ちご:お寺に仕える少年)が理不尽な理由で亡くなってしまった部屋のようです。
ヨーロッパや西アジアにも、フランス語でいわゆる「ウーブリエット(隠し牢・落とし穴牢)」と呼ばれるものが、中世のお城や大豪邸のあちこちにありました。地下の密室に人を閉じ込めたり、落とし穴に落として自ら死に至らしめたりするものです。
実際にその家に住んでいる人が全く気づかないほど、とても巧妙に作られていたものもあると言われています。
(バートンの『千夜一夜物語』第227夜の注釈にあります。)
これは人柱とは少し似たところがあるため、参考として書き添えておきます。
また、人柱としてではなく、純粋な刑罰として罪人を壁の中に塗り込んでしまうという残酷な事例もあります。
1676年のパリ版タヴェルニエの『ペルシャ紀行』第1巻616頁には、次のようなことが書かれています。
泥棒の体を四つの小さな壁で挟むようにして詰め込み、頭だけを外に出して、せめてもの慈悲として煙草を吸わせてやり、そのまま死ぬまで放置する。その泥棒が「どうか首をはねてくれ」と切に願っても、通行人がそれをやってあげることは法律で禁じられている。
また、罪人を裸のまま立たせて四方から壁で囲い、頭の上から漆喰(しっくい)を流し込んで、それが固まるにつれて息もできず、泣くこともできず、苦しみながら死なせというものもありました。
フランスのマルセルス尊者は、腰まで土に埋められて三日間日光に晒されて処刑されたと聞いていますが、頭の上からすっかり塗り込められたという話は聞いたことがないと、1622年にこうした処刑の壁を目撃したピエトロ・デ・ラ・ヴァッレが書き残しています。
『嬉遊笑覧』の巻の上のほうには、次のように書かれています。
「『東雅(とうが)』という本に、『奈良(南都)へ行って僧寺の「室(むろ)」というものを見たが、昔の「室」という建物の制度のようには見えない。もともとは僧寺の制度であるからなのだろう』と書いてあるのは間違いである。あれは本来、立派な宮殿や住宅として使われていたころの建築様式なのだ。古代の遺跡である古い穴ぐらの名残が、今でも九州などには残っているという。あれはむかし『土蜘蛛(つちぐも)』と呼ばれた人たちが住んでいた場所なのだろうか。もっと身近なところでは、鎌倉には特にその手のものが多く、これもまた古代の遺風であるに違いない。農民たちが物を入れておくために穴を掘ったものも数多くあり、またお墓の穴(横穴墓)もあり、地元の人はこれらを総称して『ヤグラ』と呼んでいる。
『日本書紀』の中で「兵庫(ひょうご)」のことを「ヤグラ」と読んでいるのは、そこが矢を納める場所だからである。しかし鎌倉のヤグラはそれとは意味が違い、おそらく「谷倉(やおくら・たにくら:谷にある倉庫)」の意味なのだろう。
そのため、お墓の穴のこともすべてまとめてヤグラと呼んでいる。
源実朝(みなもとのさねとも)公の墓穴には、岩に美しい彫り物があるため、「絵描きやぐら」と呼ばれている。
また、罪人を閉じ込めておくためにも使われていたということで、大塔宮(おおとうのみや)を始め、景清(かげきよ)、唐糸(からいと)などの伝説の古跡が残っている」
(以下略)
紀州の東牟婁郡(ひがしむろぐん)には、「矢倉明神」という神社がたくさんあります。
方言では、山の険しくて切り立った場所のことを「倉(くら)」と言います。そのため、あちこちの荘園で、険しい岩山に祀られている神様を「矢倉明神」と呼ぶことがとても多いのです。たいていは大きな岩の神様をまつっているだけで、特別な社(やしろ)はありません。
「矢倉」の「ヤ」は、言葉が縮まって「イハ(岩)」のようになったもので、「岩倉(いわくら)」という意味なのではないかとは、『紀伊続風土記(きいぞくふどき)』の八十一巻に書かれている説です。
『唐糸草紙(からいとぞうし)』というお話の中には、唐糸の前(からいのまえ)が源頼朝(みなもとのよりとも)を刺そうとして捕まり、石の牢屋(ろうや)に入れられたと書かれていますから、「谷倉(たにくら)」よりも「岩倉(いわくら)」の方が本当の意味に近いのかもしれません。
どちらにしても、この「ヤグラ」は、「城の櫓(やぐら)」と同じ読み方をしますが、まったく別のものです。
「平景清(たいらのかげきよ)や唐糸がヤグラに閉じ込められた」というお話があることから、早とがして「この二つは同じものだ」と勘違いし、「二重櫓の下から、閉じ込められていた罪人の骨が新しく見つかったぞ!」などと、まちがった断定をする人がいるかもしれませんので、あらかじめこうして弁解しておきます。
【ふろく(あとがき)】
この本文は、大正十四年(1925年)六月三十日と七月一日に「大阪毎日新聞」に載ったそのままの内容に、そこに出てくる参考にした本や※の注釈を七月十一日、十二日に書き加え、さらに今年の八月にまた新しく内容を付け足したものです。
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