初級翻訳・人柱の話 第1話

人柱の話

むかしの大きなお城や、強い堤防(ていぼう)をグラグラしないようにがっちり固めるために、人間を「人ばしら」として生き埋めにするという恐ろしい風習が、むかしは世界中にありました。その伝説やむかしのあと(古きしるべ)は、文明の進んだ国々にもけっこう残っているのです。

たとえばインドのチベット地方では、いまの時代でもまだそんなことをしているという話が、ときどき新聞に載ります。
ボムパスという人が集めたインドの古いお話(サンタルパーガナス口碑集)によると、むかし、王さまが自分のむすこのあまりの強さをこわがって、動物を神さまにお供えしても水がわき出てこない、からからに乾いた池の中に、むすこを馬に乗せたまま立たせたことがありました。
さすがは強いゆうしゃのむすこです。池の中に水がわき出てきても、決して逃げ出さず、「馬のひざの高さまで水がきたぞ」「ぼくのひざの高さまで水がきたぞ」「むねの高さまで水がきたぞ」と歌いながら、ついに水の中に沈んでいきました。
そして、その後を追って、奥さんもその池に身を沈めてしまったというお話があります。

日本の『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』という古い本にも、平の清盛(たいらのきよもり)が「経の島(きょうのしま)」という人工の島を造るときに、白い馬に白い鞍(くら)をつけ、子どもを一人乗せて人ばしらにしたと書いてあります。だから、馬に乗せたままの人ばしらというのも本当 algunos(あった)ようですね。
ただし、有名な『平家物語』のほうでは、「人ばしら立てようとみんなで話し合ったけれど、それはあまりに罪深いことだとおそろしくなり、お経を石の面に書きつけて海に沈めて島を造ったんだ。だから『経の島』と名づけたんだよ」と書かれています。

インドの例をもう少しあげてみましょう。
マドラスにある一つのとりでは、建てるときに娘を一人、壁の中に生き埋めにしました。
チュナールという場所の橋は、何度かけてもすぐにこわれてしまうので、バラモン(高い身分のお坊さん)の娘をその土地の神さまへのいけにえにしました。その娘が「マリー」という名前のその土地の「精霊(せいれい)」になり、何か悪いことが起きるたびにまつられるようになったのです。
カーチアワールというところでは、お城を建てたり、高い塔が傾いたり、池を掘っても水がたまらなかったりするときに、人をいけにえにしました。
シカンダールブールというとりでを建てたときには、バラモンの男の人一人と、ヅサードという種族の娘一人をいけにえにしました。
ボムベイのワダラ池になかなか水がたまらなかったときには、村長の娘をいけにえにしたところ、やっと水がたまるようになりました。
ショルマットというとりでを建てたとき、片方の壁がなんども何回もくずれてしまったので、生まれたばかりの赤ん坊を生きたまま埋めたところ、もう二度とくずれなくなったということです。

いまでも、人口を調べる調査が行われるたびに、人里離れた村の人たちは、「これは橋などを造るときの人ばしらにする人間を選んでいるにちがいない!」と大さわぎになります。
川のそばの村人たちは、新しい橋がかけられるたびに、「また赤ん坊が人ばしらに取られてしまう!」とおそれおののくのです。
(1896年版クルック著『北印度俗宗及俚俗』第2巻174ページ、1916年版ホワイトヘッド著『南印度村神誌』60ページ)

パンジャブのシャルコットとりでを建てるとき、東南の角のとりでが何度もくずれてしまったので、占い師の言うとおりにして、夫を亡くしたお母さんのたった一人の男の子をいけにえにしました。
ビルマ(いまのミャンマー)では、マンダレイという町のいろんな門の下に、人間のいけにえを埋めて町の守り神としました。タツンというとりでの下には、一人のゆうしゃの死体をバラバラにしてあちこちに埋めることで、そのとりでを絶対に破られない強い場所にしました。さらにすごいことには、土の土手をしっかり固めるために、なんと「おきさきさま」を池に沈めたことさえあります。
1780年ごろ、タヴォイという市が新しく作られたとき、四つの門を建てるそれぞれの柱の穴の中に、罪人(ざいにん)を一人ずつ放り込んで、その上からドカンと柱を打ち込んだため、四方へまっ赤な血が飛び散ったということです。
その罪人たちの霊が、いつまでもその柱のまわりをフラフラさまよっていて、近づく人間をたたるせいで、かえって市全体が安全にいられると信じられていたのです。
(タイラー著『原始人文篇』第2版第1巻107ページ、バルフォール著『印度百科全書』第3版478ページ)

中国では、春秋時代、呉(ご)の王さまの闔閭(こうりょ)のむすめで藤王(とうおう)というお姫さまが、ものすごくかんしゃくもちでした。あるとき、王さまが食べのこした魚をわけてもらったことに怒り出して、自分で命を絶ってしまいました。
王さまはそれをとても悲しみ、大きなお墓をつくって、金の器や玉の盃(さかずき)、銀の酒樽(さかだる)などのすごい宝物といっしょにほうむりました。そしてさらに、呉の市の中に白い鶴(つる)を舞わせて、国中の人たちが見物に集まってきたところで、その男の人や女の人たちを鶴といっしょにお墓の門の中に入らせ、しかけを動かして一網打尽に殺してしまいました。
(『呉越春秋』巻2、『越絶書』巻2)
「生きている人間を無理やり殺して、死んだ人間のお供にさせるなんて、国の人たちはこれをまちがっていると批判した」と書かれているとおり、これはむりやりのお供(殉死)でしたが、多少はお墓をがっちり頑丈にするという意味もあったのかもしれません。
『史記(しき)』の「滑稽列傳(こっけいれつでん)」に出てくる、魏(ぎ)の文侯(ぶんこう)の時代のお話です。西門豹(せいもんひょう)という役人のとき、巫女(みこ:神さまとお話しする人)が美しい娘を選んで「川の神さま(河伯:かはく)のお嫁さんだ」と言って水に沈め、大水が起きるのを防ごうとしました。これは人間をいけにえにする人ばしらにとてもよく似ています。

ずっとあとになって、唐の時代の郭子儀(かくしぎ)というえらい人が、河中(かちゅう)という場所の川の暴れっぷりをしずめようとしたとき、「もし大水の災いを止めてくれたら、自分のむすめを川の神さまのお嫁さんに差し上げます」と川の神さまにお祈りしたところ、本当に水が引きました。
すると、それほど時が経たないうちに、そのむすめが病気もせずに急に死んでしまったのです。そこで人々はその骨で人形を作り、お寺(廟)におまつりしました。
その土地の人たちは郭子儀の恩に感謝して、このお寺にお参りし、「河涜親家翁(かトクしんかおう)」、つまり「川の神さまの、人間のほうの父親(しゅうと)さま」と名づけたのです。
このように、むかしの人たちは、実際に水に沈められなくても、水神さまのお嫁さんとしてささげられた女の子は、すぐに短い命で死んでしまうものだと信じこんでいたのです。

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