初級翻訳・人魚のひいさま 第10話

アンデルセン ハンス・クリスチャン

その日の夕方、花嫁と花婿は船に乗り込み、海へと漕ぎ出していきました。
大きなどこどんという大砲の音がとどろきわたり、船という船の旗が一斉に風になびきました。
船のまんなかには、王家ご用達の金色と紫色の天幕が張られ、中にはうっとりするほど美しい寝台がしつらえてありました。
花嫁と花婿が、その場所ですずしく、しずかな、ふたりだけの初めての夜をお過ごしになるはずでした。
帆が風をいっぱいに受けてふくらみ、船はまるで鏡のように平らで穏やかな海の上を、軽やかに、なめらかに進んでいきました。
あたりが暗くなると、さまざまな色のランプがパッとともされ、水夫たちは甲板に出ておどけた踊りを踊り始めました。
人魚のひいさまも、はじめて海の底から陸に上がってきて、この晩のような華やかで楽しい光景を初めて目にしたときのことを、思い出さずにはいられませんでした。
だからひいさまは、思わず仲間たちの輪にまじって、踊り狂いたくなりました。
ひいさまは、まるでツバメが何かに追われて身をひるがえして逃げるときのように、信じられないほど身軽に、クルクルと踊りまわりました。
その見事な踊りっぷりに、みんなは「やんや、やんや」と大さわぎして褒めそやしました。
人間の姫さまでさえ、これほどみごとに踊ったことはないほどでした。
華麗に踊りながらも、ひいさまのきゃしゃな足は、まるで鋭い刃物でめった切りにされるかのように痛みました。
けれど、ひいさまはその足の痛みなど少しも痛いとは思いませんでした。
それよりも、自分の胸が切り裂かれるような切ない痛みのほうが、何倍も強く感じられたのです。
王子のお顔を見られるのも、今夜がこれが最後なのだと、ひいさまは分かっていました。
この人のために、ひいさまは愛するお父さまやきょうだいも、ふるさとの懐かしい家も、すべてふり捨ててやって来たのです。
せっかくの美しい声さえも魔女にあげてしまったうえに、くる日もくる日も、はてしない苦しみに耐え抜いてきました。
それなのに、王子のほうでは、ひいさまがそんな大変な思いをしてきたことなど、夢にも知りはしないのです。
本当に、その愛する人と同じ空気を吸って、深い海と星月夜の広大な空を眺めるのも、これが人生で最後の夜になってしまいました。
この一夜が過ぎてしまえば、ものをおもうことも、美しい夢を見ることもない、長くて長い暗やみが、魂を持たず、最後まで持つことができなかったこのひいさまを待ち受けているのです。

船の上では、しかし誰もが陽気に楽しく浮かれながら、真夜中すぎまで時間を過ごしていました。
そんな人たちの中で、ひいさまは心では「自分はもうすぐ死ぬのだ」と思いながらも、みんなといっしょに笑顔で踊りつづけました。
王子が美しい花嫁の唇に自分の唇をそっと寄せると、お姫さまは王子の黒い髪の毛を指先でやさしくいじっていました。
そうしてふたりは手を取りあい、きらびやかな天幕の中へと入っていきました。
船の上はすっかりひっそりとなり、人の話し声もしなくなりました。ただ、舵取りだけが、いつもとかわらず舵をしっかりと握りしめて立っていました。
人魚のひいさまは、船のヘリにそのまっ白な腕をのせ、だんだんと赤らんでくる東の空をじっと見つめていました。
あの初めて昇ってくるお日さまの光が、自分を消し去り、殺すのだ――とひいさまは思いました。

そのとき、ふと海のほうを見ると、お姉さたちが波の間から顔を出しているのが見えました。
でも、どのお姉さんも、ひいさまのように青白い顔をしていました。
しかも、あんなにも美しかったお姉さたちの髪の毛は、風にサラサラとなびいてはいませんでした。
その髪は、根本からきれいに切り取られていたのです。
「あたしたちね、髪を魔女に差し出したのよ。あなたを何とかして助けてもらおうと思ってね。
どうしても、あなたを今夜かぎりで死なせたくないんだもの。
そしたら魔女が、ほら、この短刀をくれたの。
ごらん、すごくよく切れそうでしょう。
お日さまが昇ってきてしまう前に、これで王子の胸をぐさりと突き刺しなさい。そうすれば、王子のあたたかい血があなたの足にかかって、足がひとつになり、お魚の尾っぽがとけて人間のおみ足になるわ。
そうすれば、あなたもまたもとの人魚の娘に戻って、海の底のあたしたちのところへ帰れるのよ。このまま死んで塩からい海の泡になってしまう代わりに、この先何百年も生きられるんだから。
さあ、早くしてちょうだい!
王子が死ぬか、それともあなたが死ぬか、お日さまが昇るまでに、どちらかに決めなくてはならないのよ。
おばあさまは、あまりの悲しさに、あの白いお髪がすっかり抜け落ちてしまわれたわ。
あたしたちの髪の毛が、魔女のはさみでこうして切り取られてしまったのと同じようになっちゃったのよ。
さあ、王子をその短刀で殺して、海へお帰りなさい!
早くして、早く!
ほら、見てごらん、もうあんなふうに空が赤んらんできたわ。
もうすぐ、お日さまがおあがりになってしまうわよ。
そうなったら、いやでもあなたは死ななくてはならないんだからね!」こう言って、おねえさたちはいかにもつらそうに深くため息をつくと、海の波のなかにスーッと姿を隠してしまいました。

人魚のひいさまは、そっと天幕にたれさがった紫色のとばりをあけました。
うつくしいお姫さまは、王子の胸に頭をやさしくのせて、すやすやと休んでいました。
ひいさまはそっと腰をかがめると、王子のうつくしいおでこに、自分のくちびるをそっとあてました。
東の空をみると、もう朝方のあかね色がだんだんとはっきりと広がってきていました。
ひいさまは、そのとき、手に持ったするどい短刀のきっさきをじっと見つめてから、もういちどその目を王子の上にうつしました。
王子は夢を見ながら、ねむりの中で花よめの名前をよびました。
王子の心のなかには、花よめのことだけしかありませんでした。
短刀をにぎる人魚のひいさまの手が、ブルブルとふるえました。
――だけど次の瞬間、ひいさまは短刀を波のまほうおくとおい場所へ、思いっきり投げ捨てました。
短刀が投げ込まれた場所が赤く光り、まるでそこから真っ赤な血のしずくがふきだしたかのように見えました。
もういちど、ひいさまは、半分うつろになってしまった目で王子を見つめました。そのせつな、自分の体を思いっきりおどりこませて、冷たい海のなかへとび込んだのです。
そうして、自分の体がみるみるうちに、白いあわになってスーッととけていくのを感じました。

いま、まぶしいお日さまが、キラキラ光る海の上にのぼりました。
その光は、やわらかく、あたたかく、死のように冷たいあわのうえに優しくふりそそぎました。

人魚のひいさまは、自分がまるで死んでいくような、そんな悲しい気持ちにはなりませんでした。
かわりに、あかるいお日さまの方をうっとりと仰ぎ見ました。
すると、空のうえには、何百人もの、すきとおるように神々しいものたちのすがたが見えました。
そのすきとおるものたちのむこうには、船の白い帆や、空のあかい雲が見えました。
空から聞こえるその声はそのまま美しい歌のメロディでしたが、それは人間の耳には聞こえない、たましいだけの声でした。

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