暮れも押し詰まった夜の浅草、並木亭でのこと。
高座の上では、若手の落語家・橘家圓太郎が、この寒さだというのにボロ布を一枚羽織っただけで、安っぽい風呂敷をだらりと帯の代わりに巻きつけ、とぼけた顔つきで高座の端っこに座っていました。
クリッとした目に愛嬌たっぷりの丸顔の圓太郎がひと言しゃべるたび、ガス灯の明かりに照らされた六十人近いお客さんたちは、みんな声を揃えてゲラゲラと笑い転げていました。
ふだんなら、こんなにお客の入りが少ない夜は、みんな周りに気を使って、なかなか笑わないものです。
いいえ、現に今夜のお客さんたちも、ついさっきまではそんな様子でした。
それが圓太郎が高座に上がった途端、にわかに爆笑の渦が巻き起こったのです。
「ウッフッフッフ」
「ワッハッハッハ」
ひっきりなしに笑いの波が押し寄せます。
そんな中で、圓太郎はニコリともせず、必死になってしゃべり続けました。
その真剣な姿が、余計にみんなの笑いを誘うのでした。
演目は「長屋の花見」。
貧乏長屋の連中が、渋茶を酒に見立て、たくあんを玉子焼き、大根の輪切りを蒲鉾(かまぼこ)のつもりにして、お花見に出かけていくというお話です。圓太郎は、ここぞとばかりに熱演していました。
まず、今月の世話役と来月の世話役が、汚いお花見の荷物を天秤棒で担いで歩いていると、向こうから身なりのいい若夫婦がやってきます。
それを見つけた世話役の一人が、「あの夫婦の着物は地味だけど、素材がしっかりしていていいものだなぁ」と感心したあと、今度は「ところで俺たちが着ているこの着物は、いくらくらいの価値があるんだろうな」と尋ねます。
すると、もう一人の世話役が「そうだな、二人合わせてもたかだか十二銭くらいのものだろう」と言ってガッカリするのです。
ところが、そうしゃべっている圓太郎師匠自身が、あまりにもその長屋の住人らしく、本当に十二銭くらいの汚い着物に、汚い手拭い、汚い扇子という姿なので、なんだか可哀想なほど真に迫っていて、お客さんは笑わずにはいられませんでした。
……やがて一行は花の咲く場所へたどり着きます。
番茶の酒盛り――「お茶盛り」が始まりました。
発案者の大家さんだけは一人で気分を盛り上げて悦に入っていますが、長屋の連中はアルコールがないので、しらけるばかり。
第一、お茶でダブダブになったお腹に、春の風は冷たく吹き付けます。
ますますご機嫌な大家さんは「一句詠め」とおっしゃるけれど、誰がそんな気になれるでしょうか。
それでもやっとの思いで誰かが一句詠んだのが、「長屋中、歯をくいしばる花見かな」。
ウヘッ、これなら詠まないほうがマシです。
そのなんとも言えない馬鹿馬鹿しさの中に、江戸っ子らしいやせ我慢があるのがたまらなく面白く、ここも圓太郎の演じ方は見事でした。
お客さんは抱腹絶倒です。
……さて、今月の世話役が、お茶に酔っぱらったつもりでくだを巻きます。それを見て喜んだ大家さんが「ずいぶんご機嫌だが、どんな気分だえ?」と尋ねると、
「なにしろお腹の中はお茶でダブダブでしょう。大家さんの前で言うのもなんですが、この前、井戸に落っこちたときの気分とそっくりでさぁ」
「…………」
圓太郎がボソッと頭を下げて、オチとともに立ち上がったとき、会場はワーッと最後の歓声を上げました。
拍手と笑い声がいつまでも鳴り止まず、お客さんたちは笑いどよめいていました。
その笑い声に送られて、圓太郎はのそのそと楽屋へ戻ってきました。
しかし、楽屋に戻っても、先ほどの長屋の世話役のような間抜けな姿のままなのは変わりません。
「ああ、いい春だったな、今夜は」
前座が汲んできたお茶を飲もうともせず、圓太郎は出番を待っていた音曲師の勝次郎のほうを向いて言いました。
「よせやい、圓太郎。今日はお前、十二月の二十日だぜ。なにがいい春だよ」
呆れ顔で、横にいた色の黒い、顔の長い古今亭今輔が言いました。
「春じゃねえか」
圓太郎は自信たっぷりの顔つきです。
「どうしてだよ」
今輔が聞き返します。
「どうしてって、お前、理屈じゃねえんだよ、陽気なんてものは。暦に出てるんだよ、ちゃんと暦に。十月から四月まではみんな春だとよ。してみりゃあ、今夜はいい春だなぁ」
言い終えて、ケロリとしています。
「こいつぁいいや」
「とんだ大笑いだ」
今輔も勝次郎も、見習いの前座までもが思わずつられて笑い出してしまいました。
ドッという笑い声が、今度は楽屋から寄席の客席へと響いていきました。
元日の盆提灯
「いつまでそんなところに立ってねえで座ったらどうだ、圓太郎」
懐手をして立ったままの圓太郎を見て、今輔が声をかけました。
「うむ。そうしちゃいられねえんだ」
圓太郎は振り向きもしませんでした。
「えらく景気がいいな。掛け持ちでもあるのか?」
意地悪そうな目を、今輔が向けました。
「よしてくれ、病気になっちまう。そんなんじゃねえ」「こちとら、貧乏という名の棒がどんどん太くなって、もう振り回すこともできない年の暮れだよ」
「じゃあ、少しもいい春なんかじゃないじゃないか」
今輔はすっかり馬鹿馬鹿しくなって、こう言いました。
「それなら、どうして師匠のところへ小遣いをせびりに行かないんだ。稽古に関しては日本一やかましいけれど、人一倍弟子思いの師匠だろう。ましてや、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの三遊亭圓朝師匠じゃないか。何もクヨクヨ悩むことはないだろう」
「ううん。いやだ」
圓太郎は首を振りました。
「師匠からはもらいたくないんだ」
「どうして?」
「だって芸のことで、ものすごく面倒を見てもらっているんだもの。このうえ、お金のことまで言い出したくないや」
「感心だな、お前。いつどこでそんな考え方を身につけてきたんだ」
今輔は、手に負えないものを見るような顔をしました。
「元からそうだよ、俺は。こう見えても橘家圓太郎は文明開化の落語家だからね。人間万事、自分の力で独り立ちさ。第一、そのほうが成功したときに、最高に気分がいいからな」
「おやっ、こんちくしょう! 黙って聞いてりゃ、たいそう七面倒くさいことを言い出したぞ。気分がいいだなんて……お前、そんな難しい言葉、どこで覚えたんだ?」
「宝丹(ほうたん)の広告で覚えたよ」
圓太郎は、平然とした顔で答えました。
「やられた。なるほど、守田宝丹とは気がつかなかった。なら圓太郎、さしあたりこの暮れに、独力独行で最高に気分がよくなる金儲けを教えてやろうか」
「そんなうまい話があるもんか」
「ところが、あるんだよ。お前がやれば必ず儲かる。大金とまではいかないが、元日一日で三両か五両には確かになるはずだ」
「えっ、三両か五両だって?」
圓太郎は急にペタペタと座り直し、今輔のそばへいざり寄りました。
「現金な野郎だな。金儲けと言ったらすぐに座り込みやがって。しかし圓太郎、お前、本当にやる気か?」
「やる気だ、やる気だ! 兄貴、頼むから教えてくれ」
「じゃあ元旦の朝、カラスが鳴く頃に飛び起きて、浅草の仲見世でもいい、両国の広小路でも、芝の久保町の原でもいい。
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