このまま僕をのんびり待っていてくれてもいいですし、もしよかったら先生もいっしょに来ていただければもっと嬉しいです。そうそう、一番電車のときに国境の峠を通り抜けて、『ここからが故郷です』と言ったとき、先生は何と言いましたっけ?
あの大潟(おおがた)と海が空にフワッと浮かんで、田畑がどこまでも広がった果てに、人家が十万戸以上もある景色を見て、『これは驚いた……山また山の中って聞いていたから、崖にごつごつと石を乗せた家がごちゃごちゃ並んでいるのかと思っていたら、案外広いんだな……』って言ったでしょう。
案外広いなんて、なんだかひどい言い草です。
僕は国自慢をした覚えはないし、自慢どころか本当は故郷なんて嫌いなんだけど、石屋根の家が崖にごつごつ並んでるなんてひどい言われようです。
いつかその話を従姉にして、先生のことをちょっと後悔させてやりたいですね」
――今思い出してもおかしくて笑ってしまいます。
「喜んでお伴しますよ」
そこで私たちは、黒い外套に黒い中折れ帽というお揃いの格好で、夜の街へと出かけたのでした。まるでこっそり忍び込んだような気分で、私にとっては珍しいこともたくさんありましたが、旅の珍道中を書き留めるのがこの本の目的ではありません。
あの傘を開いた十字路――昨日の夕方、電車を降りて賑やかな町並みを歩いた場所です。
規模こそ小さくても、電灯やお店の飾りつけはさすが地方の都会といった感じでしたが、ちょっと曲がり角に入るとそこは真っ暗。灯り一つない夜店で、まるで大きな炭の塊みたいな梨の実と、少し火が通りかけたような柿をたくさん積んだ、背の低い影のようなおばあさんがちょうど通りかかって、「ああ、寒っ、寒っ、寒やの……ありがとうございます。なまいだ、なまいだ」とブツブツ呟いているのが聞こえました。
その様子は、北国の十夜の読経や、親鸞聖人にゆかりのある土地の近さを感じさせるのに十分でした。
「あれが本願寺……」
空の低い、大きな屋根を指さしながら、
「お疲れ様です――この小路をちょっと曲がるんです」
そう言おうとしたその瞬間、八郎が、
「おや……」
と足を止めました。
「ここにあの菓子屋さんがあって、こっちが下駄屋さん、あそこが瀬戸物屋さん、畳屋さん、雨合羽(あまがっぱ)屋さん……間違いなくこのはずなんだけどなぁ。あれれ、道が違ったかな?」
と、少しばかり慌てふためきます。
……
「間違っていませんよ。紅屋さんはあすこです」
と私が笑いながら言うと、
「ですがね……」」
「大丈夫……間違いないよ。ここが紅屋さ」
「先生は紅屋の鑑定士でもないのに。
まるっきり違うよ。
ここは細い小路を一つ間違えているんだ……」
「ははは、大丈夫。
さあ、いらっしゃい。
――ほら、あそこに紅屋の息子さんが座っているから、間違いないよ」
読者の皆さんも意外に思ったことでしょう……はじめてこの土地を訪れた私が、八郎の故郷にある、しかも親戚の家を見つけられたのは――別に紅屋というお店の建て方を、昔の京都や大阪の建築様式で知っていたからではありません。
その紅屋の息子さんが、かつて一度上京して、八郎の家にいた時期があり、私がそこにちょっと居合わせて顔を知っていたからなのです。
八郎は肩を揺すって驚きました。
「おいおい、冗談だろ――店頭にいつも飾ってあるはずの福助の置物が、まるでガラスケースの中の菊慈童(きくじどう)と早変わりでもしたみたいじゃないか。
……これは驚いた。
木戸の窓ガラスがすっかり総ガラスになって、土間には黄菊と白菊だって?
……しかも大輪の菊が、獅子咲きだの、ものすごい変わり咲きだのって、まるで牡丹みたいに鉢植えにされている。
なるほど、あの菊の向こうから、本家・紅屋の軒の看板が見えているよ、冗談じゃないや。
第一、この角にあった黒っぽくて赤い合羽屋さんが、すっかり雑貨店に変わって、しかも京焼のセリ売りなんて、一体どういうことだい。
さあ二貫、二貫、一貫五百って、何なんだよこれは!」
と八郎は、お店の前に人が集まっている前だというのに、気恥ずかしくなるほど大きな声を出しました。
「さあ、どうぞお入りください。いやあ、驚きましたね」
「……ちょうど今、お迎えに行こうと思っていたところでしたよ。
……いやあ、小路の入り口に変なおのぼりさんが二人歩いているなと思ったんですよね」
と、前掛けをつけた息子さんがニコニコしながら言いました。
お店の人たちも三人そろって一礼してくれましたが、その見事な菊が十鉢ほど並べられた、まるで菊の花の中にたたずんでいるかのように、ほっこりと笑顔を浮かべながら同じように一礼する、まるで十徳頭巾でも着そうな、隠居風の優しいおじいさんの姿も見えました。
この人がご主人です。
奥さんはお店に代々伝わる一人娘で、彼女が十四歳の時、三十歳ほど年の離れた彼を婿養子として迎えたそうで、当時はお店の支配人をしていたのだそうです。
「すっかり変わっちまったなあ、変わっちまった」
と、八郎はあたりを見回して、
「おそろしくハイカラになっちゃってさあ、ここは一体どこなんだろうね」
「おじさん、正真正銘、ここは親戚の紅屋ですよ、ははは」
「いやあ、そうじゃなくて、この菊のある場所だよ。土間が広くなりすぎてさっぱり分からないんだ、見当がつかなくてさ」
「菊があるでしょう? その下は台所の井戸なんですよ。
びっくりしたでしょう、ははは。
大丈夫、危なくないですから。
父が自分で手作りしたんですよ。屋根の上で育てたんですが、ちょっと自慢らしくてね。その枝がしなった糸咲きの大輪なんかは、すごく得意みたいなんです。みんなに見せたいんだけれど、置く場所が外にないものですからね」
おじいさんはまたほっこりと微笑みました。
息子に今年の春、お嫁さんが来て、すっぱりとお店を譲ったので、隠居の気楽な仕事として、長年やりたかった菊作りを、今年はじめて苗から育て始めたのだと話してくれました。
「それは楽しみですな」
「いやあ、なんと言いますか……」
「姉さんは?」
八郎は息子の方を振り返りました。
「……ええ、台所に――おや、ちょっと」
「いらっしゃいませ」
スッとそこに友禅模様の着物がフワッと浮かび上がったかと思うと、お店の入り口の敷居のところで、結綿島田(ゆいわたしまだ)に結った頭がペコリと下がりました。
「やあ、これはこれはどうも……はじめまして、おめでとうございます。
なんだかお正月のようですね」
と八郎は一人で照れくさそうにしながら、
「まあ、あとでゆっくりご挨拶するとして……あれ、姉さんは? お母さんは……お悦さんは?」
と、なんだか急かすように言いました。
私は、彼のそんな気持ちを最初からよく察していました。
もしかして留守なのだろうか、私も少しだけ寂しくなりました。
そうして、お店の隅にある高い釣棚の上で、額を突き出しながら下を睨みつけ、きょとんとした丸い目でクスリと笑っている……大きくて古い、張り子の福助を見つけました。
初級翻訳・卵塔場の天女 第4話
卵塔場の天女
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