環境さえ変えてしまえば、それだけで道は開けるという理屈を、今でも信じているんですよ。
そうして、あちこち流れてきたのです。
自分の思い通りに仕事を動かしたり、世の中を変えようとするのではなく、仕事の通りに自分を変えて、順応しようというわけですね。
バカみたいに暮らしていくつもり、と言ってもいいでしょう」
と、卓一は笑って言った。
しかし、希望の裏打ちがない若者の行動なんてありえるだろうか。
もちろん、あるはずがない。
そして卓一にも、やっぱり希望はあるのだろう。
しかし、絶望に変わりやすい、疲れきった希望について語ることは、人間の本質や謎について語るのと同じことだ。
この解き明かせない人間性について。
自信の崩壊。
野望。
そして成功へのあこがれ。
必死さ。
けれども、安らかな時間。
第二の希望。
などなど。
それはもう、人間に直接聞いてみるがいい。
個人の知ったことではないのだ。
卓一は心の中で叫ばずにはいられなかった。
息抜きだ。
もはや俺の一生は。
しかし、卓一を故郷へ呼び寄せた心のひとつには、ある女性の面影を消し去ることができなかったという事実があった。
彼はそれを意識したが、意識がそこに触れることを、あまり好ましく思っていなかった。
田巻左門には一男と三人の娘がいた。
三人の娘はそれぞれ他家へ嫁ぎ、息子は結婚して間もなく若くして亡くなった。
子供はいなかった。
息子の妻である文子は、まだ若かった。
恐らく三人の娘の誰かから、養子をもらうべきだろう。
そして文子は実家へ帰すべきだった。
しかし左門には、文子を手放す勇気がなかった。
「俺は、いよいよ一人になってしまう」
……まるで捨てられてしまうかのような、切ない思いがするのであった。
それに、文子の人柄に、手放したくないほどの愛着を覚えざるをえないのだ。
むしろ文子に婿を探そう、と左門は考えた。
そして甥の卓一をその候補者に選んだのだ。
それは左門の胸の中に隠した計画だった。
卓一と文子は、そんなことは全く知らない。
ちょうどその頃、越後新報が野々宮の後任を探していると知ると、彼にゆかりのある新聞社ということもあって、難なく甥を後釜に据えることができたのである。
こうして卓一は帰郷した。
文子のことは何も知らない。
これだけで、第一段階は済んだ。
次は自然に任せることだ、と左門は心の中で思っていた。
もし卓一が文子を好きになり、そして文子が卓一を好きになったら、彼を養子に迎えよう。
万事は自然の流れ次第だ。
しかし文子の温和な性格や、容貌の美しさを思うにつけても、自然に任せておくことが、いつの間にか二人を結びつける希望になるはずだと左門は思った。
きっと自然にそうなるだろう。
そんな安堵がこみ上げてくる。
特にひどく落ち着いた、まるで落胆であるかのような、妙な安堵感を感じるのだ。
俺が口を出すことはない。
誰が口を出してもいけない。
自然が二人を結んでくれるに違いないと思うのだった。
いわば左門の心の底には、本人も気づいていない小さな嫉妬が隠されているせいかもしれない。
そうさせてやりたいという反面に、そうさせたくないという悲しい思いが、ひそかに燃えていることを想像してもいいのであった。
「ええ、卓一さん」
三人が夜の散歩に出かけるとき、大寺老人が卓一に言った。
「あの若い後家さん、綺麗だと思わないかね。
ええ。つやつやしているね。
瑞々しいというやつだ」「もし俺があと三十年若かったらなあ。いや、そんなことは男子一生の大後悔というものだ。さて、ここだ。今こそ、あんたが口説き落とす番だぞ。誰に遠慮がいるものか」
卓一は、その日初めて文子の姿を見た。そして彼女を見つめているうちに、左門が自分を故郷へ呼び寄せた魂胆が、おぼろげながら分かってきた。
この女性と、やがて一緒になるのだろう。
そう思うと、逃げ場のない無気力な予感に心が暗くなった。しかし、卓一をこの故郷へと呼び寄せた心の面影は、決して文子という女性ではなかったのだ。
それは四年前のことだった。卓一は古川澄江という女性と知り合った。澄江も新潟をふるさとに持ち、ピアノの修行に没頭していた。周囲の人々は二人の結婚を信じて疑わなかった。そのひたむきな情熱を見れば、結婚こそが当然の結末だと思われたからだ。
しかし、卓一は自然と澄江から離れていった。まるで自分が澄江に裏切られ、捨てられたかのような深い嘆きに沈みながら。だが、実際に澄江から離れていったのは、卓一の方だったのだ。澄江は変わらず愛し続けていた。卓一もそれを知っていた。それでも卓一の胸の奥底には、常に「裏切られた」という切なさが消えずに残っていた。その切なさを、どうすることもできなかったのだ。
次第に澄江から遠ざかることに焦りだし、心は自然と荒んでいき、自暴自棄に陥っていった。
スタンダールは、メチルドという女性に寄せる愛について語ることを好んだらしい。二人の間に肉体的な関係はなかった。彼がメチルドに会ったのは、生涯の中でもごくわずかな時間だった。深く立ち入って愛の告白を語り合ったわけでもない。しかし彼は失意のときや、あてもなく歩くひとときに、この恋を知ってからの多くの時間が、メチルドの思い出によって豊かになり、救われたのだと語った。
「その恋は、人の世には入れられないが、神の前には許されるだろう」と、彼は好みの誇張した表現で告白する。この愛すべき恋愛道の大家は、それゆえに非常に常識的な人間でもあるのだ。彼は酔うことが好きだった。そして、当時の時代の精神は、恋の酔いを冷ますほどには過酷ではなかった。
まことの愛は、恐れの中にこそ存在するのだろうか。これも奇妙な話だ。しかし愛情というものは、甘いだけのものではない。また、愛情は肉体を超えて存在しうるのだろうか。むしろ真実の愛情とは、肉体を恐れないものなのではないだろうか。
これは、どうも理解しがたい部分がある。我々の精神の奥底には、葛藤の歴史を賭けた複雑な仕掛けが隠されているのだ。精神は肉体を裏切り、肉体はまた精神を裏切る。今さらその源へ立ち戻ることは困難らしい。
しかし、人間というものは、どうしても聖母のような姿を胸に秘めておきたいものだ。愛する対象に、ひとつの神格を与えたくなってしまうらしい。これは純粋な恋ではない。少なくとも、肉体が求める恋ではないのだ。いわば人生観や思想活動と結びついた、極めて理知的な工作とも言えるだろう。
「あのひとは、多情な女だよ」
卓一は、人に向かってときにそんな溜息を漏らすことがあった。しかし、その溜息ほど彼の激しい切なさを表すものはなく、またその言葉ほど、彼自身が信じがたい事柄もなかった。
なるほど、澄江にはかつて愛人がいた。だがそれは澄江に限ったことではない。卓一だって、腐れ縁の女性がいた。どちらにしても、二人以前の、すでに過去の話だった。澄江の心は一途に卓一のものだった。卓一はそれを知っていたが、自ら最も信じがたい事柄を掴み上げては、溜息をつかずにいられないのだ。言わざるを得ないのだ。嘆かざるを得ないのだ。
澄江の眼差しに甘さはなかった。
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