卓一の気のない返事を受け取ると、木村重吉はつぶやきながら振り返った。
「映画くらい見る方が大人に見えるかもしれませんね。あの人の論法で言えば」
日が暮れた。
木村重吉が卓一の机の端に両手を突いた。
「編集長」彼は言った。
「仕事を早めに切り上げて、あとを頼んで、出かけませんか」
「まだ早いんじゃないか」
「食事もしなければならないでしょう。実は、六時に待っている人がいるのです。M屋に。嘉村さんが待っているのです」
卓一は呆気にとられた。
「実は昨晩、嘉村さんの自宅を訪問したのです。青木卓一について論じるだけでも、僕たちの話は一晩や二晩では、とても終わりませんからね」木村重吉は上機嫌に笑った。
「すると、あの人が言ったのです。『三人で映画でも見ましょう』と。六時にM屋の二階で待っているから、と言っているのです」
なんてうるさく付きまとってくるやつだろう。
卓一は心の中で呪わずにはいられなかった。
映画くらい見る方が大人に見えるかもしれませんね――。その朝の木村重吉のつぶやきを思い出すと、すべての事情が読み取れた。
卓一の右腕のように気取っていながら、卓一と由子のあいだの秘密に部外者であるという事実が、以前から木村重吉をいらだたせていたのだ。
それを知らない卓一ではなかった。
たまたま由子が訪ねてきたとき、好機を逃すまいと応接室へ潜り込んだ早業には苦笑もしたが、むしろ、ちやほやしてやりたいような憐れみを感じないこともなかった。
お節介を焼きたがるのは、もともと彼の性質だ。こちらの神経に絡んでくるわずらわしささえなければ、眺めている分には、皮肉と切り離せない一抹の滑稽味として楽しむこともできた。
応接室での自己紹介から、唐突な由子の訪問を急がせようとする木村重吉。焦燥に駆られているのか、あるいは相当な計算があるのか、まったく見当のつかないような、落ち着き払った慌ただしさを考えても、悪意のない笑いを覚えずにいられない節もあったのである。
友情にも時間が必要であるとすれば、木村重吉にとって、時間ほどもどかしいものはなかったのだろう。
三人で映画を見ようだなんて、そんなことを由子が言い出すはずがない。
卓一はそう思った。
そこまで執拗に未練を燃やすような由子ではなかった。たとえ未練があったとしても、それをさらけ出すような由子ではない。たまたま人に勧められれば、あえてこだわらないだけの落ち着きと、老成と、度胸を兼ね備えた由子であったはずだ。
――すべては木村重吉のからくりなのだ。
それも、時間を飛び越えたいという彼の焦りの表れに過ぎないならば、苦笑で済ませることもできるだろう。
しかし、その朝の彼のつぶやきを思い出すなら、動機は決してそれひとつではないことを、すぐに察することができた。
映画くらい見る方が大人に見えるかもしれませんね、と彼は言ったのだ。
野々宮は踊らない方が大人に見え、卓一は踊る方が大人に見えるのに、という由子の批評があったそうだが。
女というやつは、ひどいことを言うものだ、と木村重吉は満悦のつぶやきを漏らしているのだ。
してみると、由子の批評は、木村重吉のお気に召したのだろう。
踊る方が大人に見えるのに、という由子の批評は、卓一にも理解できた。しかし、踊りと映画では、本来の意味がまったく違っているではないか。
由子の言葉を、いったい木村重吉はどのように理解したのだろうか。
――それは卓一に対する大人げない嫌味でもあり、皮肉でもあった。
もともと由子の発言を正当に理解できない木村重吉ではないはずだ。
映画を見る方が大人に見えるかもしれない、という言葉を字面通りに受け取るべきではない。ひとつの洒落として捉えるのが妥当だった。洒落にしては、たしかに下手な洒落ではあったが。
卓一はそう思わずにはいられなかった。
要するに、洒落だとしても、とにかくそこには彼の本心が表れているのだ。
踊る方が大人に見えるという言葉とは多少意味が違うだろう。それでも、うちの大将もたまには女と映画くらい見る方がいいのだ、というお節介な注文を見出さずにはいられないのだ。
これまで何度もあらゆる方法で卓一に絡みかけてきたお節介な注文のうち、おそらく最もあくどいもののひとつだった。
ついに卓一の恋愛にまで注文をつけ、その期待通りの態度を要求しようとするのであった。
当の木村重吉は、自分自身のこのお節介な行動を、一体どう理解しているのだろうか。木村重吉は、卓一という男は自分のお膳立てなしでは恋のひとつもできない人間だと思い込んでいるのだろうか。
そうなのかもしれない。
女性というのは、どれほど賢い人であっても、老成した男の心の中に、思いがけず残っている幼い悦楽を捨てきれないものなのだ。
映画を見たり、お茶を飲んだり、お菓子を食べたり、記念の品々を大切にしたり、踊ったりすることが好きなのだ。
それらのものが、彼女たちの一生の友達なのだ。
卓一のように、ひとつの思想を身の回りのあらゆることに反映させずにはいられないような人間に対して、女性たちはしばらくの間は、表面上の歩調だけは合わせることができるだろう。
しかし、内面の歩調まで完全に合わせきることはできない。
そして、そうした女性の内面に迎合できない趣味を持つ男は、たとえ自分の中に恋心があったとしても、ひとりでは恋を育むこともできないのだ。
恐らく木村重吉は、卓一のことをそのように決めつけているのかもしれない。
恋とは何だろうか。
女性とお茶を飲み、踊り、映画を見物することなのだ。
心に秘めた思いだけでは、恋にはならないのだ。
心には愛情のほかに思想もあり、理知もあり、すべてを忘却の彼方へさらってしまうような憂いもあり、そして時間の魔術さえあった。
愛する人を、愛さない人に変えてしまうことは容易だった。
冷めない恋を抱えながら、心だけを冷めてしまわせることも容易だった。
恋は心の中にはなかった。
恋は「形」の中にあるのだ。
映画を見物し、お茶を飲み、踊り狂うその形の中にあるのだ。
そして形に溺れきれない卓一は、ひとり歩きの恋もできない人なのである。
心の中では、それを強く欲していながら。
卓一は木村重吉の注文に、痛いところを突かれたという思いを抱かざるを得なかった。
いや、卓一の内省は自然と自分の急所を探り当て、まるでそれを木村重吉に見透かされ、突きつけられたかのような気分に陥らざるを得ないのだった。
たびたび木村重吉の執拗な意志によって、自分の生き方に何かと口出しをされながら、その注文が一応は常に的を外れていないことも認めざるを得ないのだ。
たかが一応的を外れていないだけのことではないか。
卓一は苛立たずにいられなかった。
一応の道理は備えているというところが、余計に鼻持ちならないのだった。
卓一の心も、由子の思いと同じように、その頃は恋に冷めかけていた。
しかし、かつての愛情を、はたして恋心と呼べたのだろうか。
とにかく、何らかの愛着心であったことは間違いなかった。
卓一はたびたび由子の外見の美しさに心を打たれ、新しい気持ちに目覚めるような思いを抱くのだった。
ただそれだけのことではあったが。
コメント