眼下には削り取ったような谷があり、吾妻川の流れる音も冬の中頃ゆえ水は涸れてはいますが、名高い急流だけあって、岩に当たって落ちる水音が「ゴーッ」と物凄く響き渡っています。
丹治「困ったな、雪が降ってきたぞ」
おかめ「旦那様、いけませんねえ。ここから北牧(きたまき)まではどれくらいありますか?」
丹治「俺も初めてだから何里あるか分からん。本当に困ったな。幸いあそこに草履や草鞋を吊るしている家があるから、腰を掛けて、桐油(とうゆ)の合羽を羽織って行こう。それ以外にどうしようもない。おい、御免よ。お婆さん、茶を一杯おくれ」
婆さん「へえ、お掛けなさい。誠にひどい雪が降り出しましたねえ」
丹治「ここから北牧まではどのくらいあるんだ?」
婆さん「はい、一里と少々ありますよ。これからは下りになりますが、道が険しいですからねえ。まあ、ここにお掛けなさい。お困りでしょう」
丹治「本当に困ったよ。一里以上もあるなら、今から行くのは無理だな。どこかこの辺に宿屋はないか?」
婆さん「へえ、この間までは村上に二軒ありましたが、ちゃんとした宿屋ではないと北牧の宿屋連中からうるさく言われて廃業してしまいましてね。今はもうありません。北牧までの間には一軒もありませんよ。お困りでしょうねえ」
丹治「困ったことだ。近所で泊めてもらうわけにはいかないか?」
婆さん「それは無理でしょう。どういうわけか、お尋ね者だとか何とか厳しく言われていて、普通の家が旅人を泊めてはいけないというお触れが出ていますからね。泊めてくれるところはないでしょう。どうしても困るなら、ここから半町ほど戻ったところに『寮』というものがありますから、そこへ行って泊まりなさい。婆さんが一人で住んでいて、困った旅人はみんなそこへ泊めてもらっていますよ」
丹治「その寮とはどこだ? 寮とは何のことだ?」
婆さん「何って、お寺のことですよ。檀家もいない寺で、お地蔵様のお堂を守っている比丘尼(びくに)の婆さんが一人で住んでいます」
丹治「行けば泊めてくれるだろうか?」
婆さん「旅人だけでなく、商人なども泊まっているようですから、泊めてくれるでしょう」
丹治「そうか。茶代を置いていくよ。それなら戻って横道へ半町ほど入るんだな。いろいろ世話になった」
そう言ってその家を出て、少し引き返してから半町ほど細道へ入っていくと、荒れ果てたお堂があり、その中に鼻が欠けた醜い顔の石の六地蔵が建っていました。
その左手にある屋根のない門のような場所から中を覗くと、ボロボロの小屋がありました。台所口から中へ声をかけます。
丹治「御免ください」
比丘尼「はい、どちら様でしょうか」
丹治「手前は旅の者ですが、夫婦で乳飲み子を抱えておりまして。この雪に降られて泊まる場所がなく困っていたところ、近所の方に教えられてお願いに上がりました。どうか情けで泊めていただけないでしょうか」
比丘尼「それはさぞお困りでしょう。泊まりなさい。ただ、私も年老いていて人様のお世話はできませんし、こんな庵(いおり)ですから食べ物も寝具もありません。今のままの姿で、ゴロリと横になれるだけでよろしければお泊まりなさい。そこに清水を筧(かけい)で引いた井戸がありますから、足を洗って中へお上がりなさい。盥(たらい)は台所にありますよ」
丹治「はい、ありがとうございます」
そうして足を洗って中へ通されると、四尺に三尺ほどの囲炉裏に真っ黒な自在鉤(じざいかぎ)が掛かり、煤けた薬缶がぶら下がっていました。丹治「実にひどい天候になってきましたね」
比丘尼「そうですねぇ。この山国では時々山から雲が吹き出して、雪かと思えば晴れ、晴れたかと思えばまた降るという具合で、山の天気なんてさっぱり分かりませんよ。……お二人さんは、江戸の方とお見受けしますが」
丹治「左様です。少し事情があって田舎へ参っておりましたが、この度ようやく帰りかけるところです」
比丘尼「寒いでしょうから、遠慮なさらず粗朶(そだ=細い枝)をくべて暖まりなさいな。気の利いたおもてなしはできませんがね」
丹治「ありがとうございます」
そう言って粗朶をくべて火を焚くと、燃え上がる炎の光で比丘尼の婆さんの顔が照らされました。年頃は五十五、六といったところでしょうか。それでも、でっぷりと太った瑞々しい婆さんです。無地の濃い花色の布子(ぬのこ)に腰衣(こしごろも)を着けている姿を見たおかめは、じっと顔を見つめてひどく驚きました。
それもそのはず。三年前に沼田の下新田へ、道連れの小平という詐欺師を連れて強請(ゆすり)にやってきた「おかく婆」その人だったからです。おかめは驚き、思わず声を上げました。
おかめ「あなた、おかく婆さんじゃありませんか!」
その声におかくも驚きました。
おかく「これはまあ、誠に思いがけないところでお目に掛かりました。あなたは下新田の角右衛門様のお内儀、おかめさんではありませんか」
おかめ「『おかめさん』なんて馴れ馴れしい呼び方はやめておくれ! 旦那様、この婆さんですよ! おえいを誘拐した旅の悪党『おかく』という悪婆は! まさか比丘尼になって、こんなところに隠れていたなんて、これっぽっちも知りませんでしたよ!」
それを聞いて、丹治は目を釣り上げました。
丹治「不届きな奴め!」
そう言いながら、ずかずかと詰め寄り、腰の長刀に手を掛けました。さて、この後はどうなることでしょうか。
十二
さて、丹治とおかめは横堀村の庵室で、図らずもおかく婆に再会しました。丹治が刀に手をかけて詰め寄る権幕に、いくら悪党とはいえ、今は比丘尼の身であるおかくは逃げもせず、過去の非を悔いて恐れ入りました。手をついて懇願します。
おかく「お怒りになるのは重々ごもっともでございます。ですが、どうか私の申すことを一通り聞いてください。私もいい年をして、いつまでも罪を重ねず、親子連れで旅を稼いでは悪事の限りを尽くしてきましたが、だんだんと思い返してみると、自分ながら恐ろしくなりました。息子の小平はお縄を頂戴し、送られた先でこの七月に牢死いたしました。あぁ、これも悪いことをした罰だと、心から洗われるように改心したのです。今までの悪事の罪滅ぼしのため、頭を剃り、毎日托鉢をして歩いてこの村へ参りました。慈悲深い方のお世話でこの地蔵堂に入り、堂守をして、麦や挽割(ひきわり)を頂いて細々と暮らしております。毎晩々々、地蔵様に向かって若い時分の懺悔をし、お詫びをしております。ここでお二人にお会いするのも、すべては悪事の報い、実に恐ろしいことでございます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……。どうぞこの丸坊主の頭に免じて、勘弁してくださいまし」
掌を合わせて拝む姿を見て、丹治も一旦は引こうとした長刀を収めましたが、なおも疑って問いかけました。
丹治「貴様、本当に改心して尼になったのか?」
おかめ「まあ、あの小平という悪党は牢死したのですかえ。それにしても、あんたが本当に心を入れ替えたなんて、にわかには信じられないけれど、本当なの?」
おかく「誠に面目次第もございませんが、嘘で頭が剃れるものでしょうか。
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