主人「それではお気をつけて。磯之丞、しっかり案内してやれよ」
傳吉・宇之助「それでは、お世話になります」
と挨拶をして西の方へ向かいました。花野原を二、三町(約200〜300メートル)行くと、ちょろちょろと流れる川があり、きちんとした道はありません。沢を渡って歩くこと七、八町(約800メートル)進むと、山手へかかるにつれて熊笹が生い茂り、歩くたびにゴソゴソと音がします。朝露で袖を濡らしながら、段々と登っていくと、熊笹は背丈を越えてしまい、向こう側が見えないほどになりました。
傳吉「おいおい案内さん、少し待ってくれ。これじゃ狼が出ても大蛇が出ても分かったもんじゃないぞ」
案内「狼が出ても大丈夫でがんす」
宇之助「こんな場所は、あとどのくらい続くんだい?」
案内「まだ二十町(約2キロ)ばかりありやす」
傳吉「いやはや驚いた。熊笹も寿司屋(笹の葉を使うため)にあれば粋なもんだが、こんなところにあると風情も何もないな」
などと話をしながらようやく登っていくと、ここからは「金精峠(こんせいとうげ)」と呼ばれる実に厳しい難所です。木々は榧松(かやまつ)や羅漢柏(あすなろ)の大木ばかり。かれこれ一里半(約6キロ)ほど登ると、西の方には日光の男体山、こちらには白根山が見えてきました。
傳吉「どうだい、ひどい場所だねえ。おい、なんとか言ったっけ、磯之丞さん、すごいところだね。こんな場所だとは思わなかったよ。これじゃあ大蛇も出るだろう。どうだい宇之さん」
宇之助「ひどいところですねえ。私もこれほどとは思いませんでした。これからまた登るんですか?」
案内「これからは下りになりやす」
と言いながら、ここから一里(約4キロ)ほど下ると、谷川がどうどうと流れていました。
山には見たこともない草花が咲いています。
谷の水で喉を潤してから、さらに一里半(約6キロ)ほど登ると、見上げるような大木ばかり。二人はすっかりくたびれてしまったので、大木の根元にどっかりと腰を下ろしました。
傳吉「宇之さん、弁当にしようじゃないか。案内さん、弁当を出してください」
案内「ハア、随分くたびれやしたね」
傳吉「お前は慣れているから疲れないようだねえ」
案内「私なんざあ年中こういう所を歩いているから、平地の方がかえって歩きにくいんで」
と言いながら二人が弁当の包みを開けると、大きな握り飯が二つと、梅干しの堅いのが入っていました。傳吉「おいおい、ずいぶんと大きな握り飯じゃないか。もっと小さくいくつかに分けてくれればいいのに。梅干しも真っ赤でカチカチじゃないか。ああっ、すっぱい! 案内人さんの握り飯も大きいんだねえ」
案内「私はこれを半分食べて、残りの半分はまた明日食べるのさ」
傳吉「喉が渇くねえ。お茶か何か飲みたいものだよ」
案内「お茶なんてものはどこにもありゃしないよ。六里(約24キロ)もの間、人家なんて一軒もないんだから」
宇之助「それじゃあ、どこかから水を汲んできてくれないか」
案内「水だってありゃしませんよ」
宇之助「そんなことを言うが、さっき川が流れていたじゃないか」
案内「あれは山の上から勢いよく叩きつけて流れてくるから下にはあるけれど、山の上には水なんてないんですよ」
宇之助「喉が渇くなあ。このまま飯を飲み込むしかないのか」
と文句を言いながら弁当を済ませ、「さあ、さあ下りましょう」と、そこから二里(約8キロ)ほど下ると、ようやく里に近づいたようで水がどうどうと流れていました。雑木林があり、向こうで薪を割っているのは、この山村の杣人(木こり)のようです。そのそばには、山菅(やますげ)で作った腰みのと、谷地草で編んだ山岡頭巾が放り出してあり、燻(いぶ)された薬缶と茶碗が二つ、弁当箱が置かれているのを見て、
傳吉「宇之助さん、水のあるところへ来るとお茶があるぞ。向こうに木こりか何かがいるみたいだ。もしもし、少々お願いがあるのですがね。私たちは日光から山を越えてきたのですが、そこに茶か何かありますか? いただけないでしょうか」
杣人「はい、ぬるくなっているでしょうが、よろしければお飲みなさい」
宇之助「もし、あなたのお宅はこの近所なのですか?」
杣人「はい、ここから二里(約8キロ)ほど下ったところでございます」
傳吉「それじゃあ、この薪は背負って下りるのですか?」
杣人「いいえ、この難所を薪を担いでは下りられません」
傳吉「それじゃあ、馬の背に乗せて下ろすのですかね」
杣人「いや、馬ではなおさら無理です」
傳吉「それじゃあ、どうするのですか?」
杣人「この谷川へ投げ込んでおくと、ちょうど翌日の昼ごろに私共の村まで流れて着くのですよ」
傳吉「へえ、のんきなものだなあ。お茶を一ついただきますよ」
と言っているところへ、雑木林から出てきたのはその杣人の女房らしく、歳は二十七、八歳ほどで、色白く鼻筋が通り、山里には珍しいほどの美人でした。細帯で両方の裾をたくし上げ、夫の手伝いをしている様子は、二人とも仲睦まじく働いているように見えました。それを見て傳吉が言いました。
「宇之さん、こういう山の中の女だから余計に目立つが、こんなふうに煤けてはいても、これを江戸へ連れて行ってきれいに磨いてみろ。どんな紙屑買いが見たって、大店の奥様のような価値があるぜ」
「へえ、なるほど。本当にいい人柄ですねえ」
そう思って宇之助がまじまじと見ると、なんと八年前に別れた主人の塩原角右衛門夫婦ではありませんか。
「お懐かしい! どうしてこんなところにいらっしゃるのですか」
宇之助はそう叫ぶと、女のそばへ駆け寄り、草原に手をついてひれ伏しました。
お清「あらまあ、右内(うない)じゃないの。旦那の岸田右内でございますよ」
塩原「おっ、右内か! 懐かしいのう」
そう言われて右内は涙ぐみました。
右内「ええ……。そんなお姿になられて、このような山の中においでとは。お情けないことでございますなあ」
塩原「いやあ、浪人してしまって、別に頼る当てもなかったのだ。この村に元家来の惣助という者がいるから、それを頼ってやってきたのだが、四年前の洪水で(山も田地も)流されてしまってな。どうしようもなく、秋はこうして木こりをし、冬になれば猟師をして、少しずつ暮らしている。実に落ちぶれ果てた姿だが、まさかこんなところで会おうとは思わなんだ」
右内「はいはい……。私が家出をしましたのは八年前ですが、その時はさぞかしお怒りになられたでしょうな」
塩原「その折は『悪い奴め、主人の妹をそそのかして家出をするとは不届き者だ』と怒っていたが、ここ五、六年というもの、懐かしくて、実に会いたいと願っていたのだよ」
お清「そうして、妹のおかめは無事でいるのかい?」
右内「はい、達者でございます。お宅を家出してから、今では本郷の春木町で裏長屋暮らしをしております。他にどうということもございませんから、今ではこうやって行商をしておりますが、いつかあなた様にお目にかかってお詫びをしたいと、朝な夕な願っておりました。まさかこのような山の中においでとは存じませんでしたが、沼田の方にいらっしゃると聞いておりましたので、日光から山を越えてまいりました。
初級翻訳・塩原多助一代記 第2話
塩原多助一代記
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