初級翻訳・夢鬼 第1話

夢鬼

一

 人里はなれた村はずれの丘に、いつの間にか、カラフルで華やかな幕がたくさん飾られた、にわか作りのサーカス小屋が建てられました。看板には「極東曲馬団(きょくとうきょくばだん)」と書かれています。にぎやかな楽隊(ジンタ)の音楽や、ヒョロヒョロと空気にのって流れてくるフルートの音に誘われて、村の人たちは、おじいさんやおばあさんから子どもたちまで、みんな大喜び。しばらくの間、まばゆい色や音楽、そしてハラハラドキドキするサーカスのスリルを心から楽しみました。そして、いつの間にかサーカス団がどこか別の場所へ旅立っていったあとも、村の人たちはしばらくの間、ふと空に浮かぶ白い雲を見上げては、あのサーカスで見た、男の子や女の子たちの、キュッと引き締まった不思議なしなやかな体つきを思い出すのでした。
 とてもきらびやかで楽しそうな雰囲気の中にも、やっぱり、心に小さな「悩みの虫」を抱えた子がいたのです。

一ノ二

「ばか者! そんなこともできないのか、このマヌケめ!」
 サーカス団の親方は、乱暴な言葉でそうどなると、手にした革のムチで床をビシビシと叩きつけながら、黒吉(くろきち)をにらみつけました。
 まだ幼くてかわいそうな男の子である黒吉は、怖くてビクビクしながら、
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
と、つぶやくように言いました。そして、ボロボロに破れたうすい練習着の肩のあたりをこすりながら、氷のように冷たい床の上で、また不器用な格好で、ゴロンゴロンと何度も「逆立ち」の練習をやり直すのでした。
 お腹がペコペコなこと、おそろしさ、体の痛み、寒さ、そして周りの団員たちからのバカにしたような笑い声。それらはいつものことでしたが、黒吉の心にぐっと重くのしかかります。思わずポロポロとこぼれ落ちた、血のように熱い涙が、ざらざらした木の床に黒いシミを作って、静かに吸い込まれていきました。
――ここは、極東曲馬団の舞台の裏側(楽屋裏)です。
 逆立ちが下手で、何をやっても不器用な黒吉は、このサーカス団で働く男の子だったのです。
「鴉 黒吉(からす くろきち)」。
それが彼の名前でした。
 けれど、これがステージの上だけの芸名なのか、それとも本当の名前なのかは分かりません。おそらく漢字の並びから見て、親方が勝手につけた名前に違いありませんでした。本当の名前が何なのかは、黒吉本人はもちろん、親方だってはっきりと知っているかどうか怪しいものでした。
 黒吉自身の昔の記憶は、とてもぼんやりしたものでしたが、かわいそうなことに、その記憶はいつも、このサーカス団の片隅にある衣装ダンスの前から始まっていたのです。
 そのため、彼が物心ついたときから――つまり、いちばん古い記憶の始まりから――彼の周りには、いつもどこか悲しげな楽隊の音楽と、シワだらけでハデすぎる色の衣装、そして、それらから漂う安っぽいお化粧のにおいや、汗のしみこんだ練習着のムッとするにおいが、いつも混ざり合って漂っていました。
 このような、どこかどんよりとした空気の中で、団員たちの間でいつも繰り返されるケンカや、一見華やかなサーカスの裏にある、ジメジメとした暗い人間関係。それらは、幼い黒吉の心から「明るさ」や「元気」を、すっかりむしり取ってしまいました。
 そして、あとに残された、まるで日陰に隠れる虫のような暗い黒吉の心は、世の中というものを、少しねじ曲がった、暗い方向からばかり見つめるようになってしまったのです。
 彼は、やることがないときはいつも、太い丸太が荒縄でクモの巣のように縦横無尽に組み立てられている、薄暗い舞台裏のすみっこで、ぼんやりと何かを考え込んでいました。
 それは、子どもらしくない、どこか暗くて、いじいじとした寂しそうな姿でした。
 黒吉は、同じサーカス団の仲間である他の子どもたちから、
「おい、こっちへ来いよ!」
と声をかけられるのを、明らかに怖がっているように見えました。
 けれど、それは彼の取り越し苦労でした。他の子どもたちは、いつも暗い顔をしていて、芸も下手くそで、親方からも嫌われている黒吉と、自分から進んで遊ぼうなんて、だれも思っていなかったからです。
(それは、おそろしい親方に気を使っていたからでもあったのでしょうが)それ以上に、子どもたちは黒吉のほうから話しかけても、決して優しく返事をしてくれそうにありませんでした。
 結局、黒吉はそれを都合のいいことにして、サーカス小屋の隅っこで、みんなから忘れられたまま、ぽつんと一人きりで過ごしていました。そして、彼にたった一つだけ残された、やすらぎの場所(オアシス)である、たわいもない「空想」の世界に浸るのを楽しんでいたのです。

一ノ三

 暗い顔をした黒吉は、いったい何を考えているのでしょうか。
――そのお話をする前に、黒吉がなぜ親方からそんなに嫌われているのかを、説明しなければなりません。
(それは、彼の心が暗くなってしまったことにも、とても大きな関係があるからです)。
 黒吉は、どう見ても親方のお気に入りには見えませんでした。
 もちろん、彼が芸を覚えるのが遅くて不器用だったことも、理由の一つではありました。けれど、もう一つの大きな原因は、彼が「生まれつき顔立ちが整っていない」という、かわいそうな不運を背負っていたからでした。
 男の子の見た目が、それほどまでに幼い心を苦しめるものなのだろうか、と思うかもしれません。
 けれど本当に、ステージの上で生きていく人たちにとって、顔の見た目が良いか悪いかというのは、ものすごく大きな違いになってしまうのです。
 たとえば、黒吉と同じくらいの年齢の、愛くるしい可愛い顔をした男の子が、ステージの上でうっかりお尻もちをついてしまったとします。すると、見ているお客さんたちは、
「あらまあ、かわいそうに……。顔を真っ赤にしてこっちを見てるわ、なんて可愛らしいのかしら!」
と言って、その美少年は失敗したことで、かえってお客さんから人気者になるのです。
 ところが、それとは反対に、整っていない顔立ちの黒吉が、ステージの上でまったく同じ失敗をしたとします。するとお客さんたちは、少しも手加減することなく、このぎこちない男の子の下手くそさを、声を上げて笑いものにするのでした。
 お客さんにまで笑われてしまう黒吉の姿が、親方の目には、どれほどマヌケで、ただ飯を食うだけの役立たずに映っていたか。それはもう、十分に想像がつくことでした。従って、黒吉に対する親方の仕打ちがどんなものだったか、想像に難くありません。
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと考え込んでいる黒吉の幼い心には、楽しい空想などではなく、この二つの子供らしくもない苦悩がいつも吹き荒れていました。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持ちをぐいぐいと押し込めてしまい、彼をなお一層、陰気にする以外、何の役にも立たなかったのです。
冷たい冷たい胸の中で、熱いものはただ一つ、涙だけでした。
こうした雰囲気の中に閉じ込められた鴉黒吉が、真っ直ぐに育つはずもありません。
――そして、蒼白く「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人作り上げられていったのです。

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