すると突然、サーカス小屋の向こうから、楽隊(ジンタ)のにぎやかな演奏が始まりました。
そして、どこか寂しくて、消えてしまいそうなクラリネットの音色が、「ここは御国を」といった聞き慣れたメロディを、一音一音ていねいに教え込むように吹き鳴らすのを聞いていると、だまって耳を傾けていた黒吉の胸の奥から、何だか熱いものが、静かにこみ上げてくるのでした。
彼は、ずいぶんと長い間忘れていた温かい気持ちを思い出して、目頭が熱くなるのを、唇をぎゅっと噛みしめてこらえました。
そのとき、背後の方で「ガタッ」と物音がしました。
(親方が戻ってきたのかな?)
黒吉はハッとして涙をふくと、勢いよく後ろを振り返りました。
そこには、薄汚れたネズミ色のカーテンが、風に吹かれたように重たげに揺れていました。そして、そのカーテンの裾と床板との、ほんの数センチのすき間から、衣装用の箱か何かがひっくり返っているのが、チラリと見えました。
彼は、その仕切りのカーテンをじっと見つめました。
彼は確かに見たのです。振り返ったほんの一瞬、カーテンの真ん中あたりにある小さな破れ目の向こう側で、白い手がチラリと動いたのを。
(葉ちゃんだ……!)
彼は、ピンとひらめきました。
(どうして、あんなところから僕をのぞこうとしたんだろう?)
不思議でたまりませんでした。
きっと葉ちゃんは、僕の様子をのぞき見しようとして箱の上に登り、その箱がバランスを崩してひっくり返って、あんな音を立ててしまったに違いありません。
(僕が親方に怒られるんじゃないかって、心配して見に来てくれたのかな?)
彼は、葉ちゃんの可愛らしい赤い唇を思い出しました。
(でも、待てよ……)
黒吉は、さっき空中ブランコから落ちそうになって、あやうくバラバラに砕け散るところだった、あの恐ろしい瞬間のことを思い出しました。あのとき、葉ちゃんは驚くほど平気な顔をしていました。それどころか、どこか怪しい笑みさえ浮かべていた、あの好奇心に満ちた目が、黒吉の頭をよぎりました。
(あいつ、僕が親方にどんなお仕置きをされるか、面白がって見にきたんだな……)
そう思った瞬間、黒吉は生まれて初めて、葉ちゃんに対して、ゾクッとするような冷たい気持ちを抱いたのです。
(絶対にそうだ。もし本当に僕を心配して来てくれたのなら、親方がいない今のうちに、一言くらい優しい言葉をかけてくれたっていいはずだ。……それに、葉ちゃんはときどき、僕を叩いたりいじめたりして、なんだか不思議そうに楽しんでいるところがあるんだから)(ちぇっ、かわいい顔をしやがって)
黒吉は、つばを吐き捨てるようにつぶやきました。
「おい、黒吉。黒吉……」
親方の声です。
彼は思わずドキッとして、あわてて後ろを振り返りました。
「黒吉、見ろ、あったぞ! 本当に不思議なこともあるもんだな」
親方はそう言うと、きょとんとしている黒吉の目の前に、左手を突き出しました。
そのゴツゴツとした頑丈な左手の薬指の付け根には、いつものように、あの金色の土台に不思議な模様が彫られた指輪が、静かにキラリと光っていました。
「あ、ありましたか……やっぱり……」
「あったんだよ。なあ黒吉、一体どこで見つけたんだ?」
「よかったですね……。ですから、あの空中ブランコで空を飛んでいる時に……」
「冗談を言うな。もう怒らないから本当のことを言ってみろ。お前は未来や遠くを見通せる超能力者(千里眼)でもあるまいし……。それに、あんな高いところから下の様子がハッキリ見えるわけがないだろう。おまけに、あの場所からじゃ、洗面所は物陰になっていて見えないはずなんだぞ」
「そ、そうなんですけど……」
(おかしいな。確かに親方の言う通りだ。あの天井の高さからだと、ちょうど引き幕が邪魔になって、洗面所は見えないはずなのに……)
黒吉は一生懸命に頭を整理しようとしましたが、考えれば考えるほど、頭の中はますますモヤモヤするばかりでした。
「どうしてなのかは僕にも分かりません。でも、とにかく見えたんです。頭の中がモヤモヤッとしている中で、洗面所と指輪のところだけが……。指輪のことばかりを必死に考えていたからかもしれませんけど……」
「まるで夢みたいな話だな。夢中になって考えていたから見えた、というわけか」
「ええ、そうなんです」
「ふーん……」
「それで……」
黒吉は、せっかく直りかけてきた親方の機嫌をまた悪くしては大変だと、あせって言い訳をしようとしました。けれど、自分でもよく分かっていない不思議な出来事を、親方に納得してもらうことなんてできるでしょうか。
「それで、『見つけた!』と思った瞬間に、本番中であることをうっかり忘れてしまって、あんな失敗をしちゃったんです。……本当にすみません。決してわざとやったわけじゃないんです……」
「当たり前だ、わざとやったとしても命がけのスタントだからな……。それにしても、顔を洗うときにでも落としたのかな……」
親方は、指輪をなでながら自分だけで納得すると、
「まあ、今日のところは許してやる。だがな、これから女の子の夢なんか見てボーッとして、下へ落っこちたりしたら、タダじゃおかないからな!」
「えっ!」
黒吉は、空中ブランコで見た「葉ちゃんの幻」のことを言われたのかと思って、ギョッとしました。
「ハッハッハ! よしよし、あっちへ行って次の準備でもしろ」
親方は、指輪が見つかってとても機嫌が良かったので、珍しく冗談を言っただけなのだと、黒吉は気がつきました。
「はい、すみませんでした……」
黒吉は、できるだけ表情を変えないようにしながら、申し訳なさそうな様子を見せて、親方の部屋を出ていきました。
(不思議だ。本当に、なんておかしな話なんだろう……。あの空中に浮かんで見えた葉ちゃんの幻も、さっきの指輪を見つけたことも、どちらも絶対に見えるはずのないものだ。それなのに、考える力も、記憶も、すっかり消え去って、無我夢中で空を飛んでいる瞬間に、ひょっこりと頭の中に浮かび上がってくるなんて……)
一体、これはどういうことなのでしょう。
黒吉は、親方の部屋を出て、楽屋の片隅まで歩いていきました。
けれど、彼の頭の中は、そんなおかしな疑問だけでいっぱいになっていました。その疑問たちが頭の中で激しくぶつかり合い、熱を帯びていきます。
(僕は、真昼間から、夢でも見ているんじゃないだろうか……)
黒吉は、いつも腰掛けている衣装箱の上に、ストンと腰を下ろしました。
その箱がひんやりと冷たかったせいか、まるで氷を押し当てられたような、ゾクッとする恐怖が襲ってきました。
(僕、頭がおかしくなっちゃったんじゃないかな……)
そんなことをしみじみと考えれば考えるほど、恐ろしいことはありません。
「自分は正常だ、頭はしっかりしている」と、一体どんな証拠があって言い切れるでしょうか。
頭の病気の人だって、考えることはできるし、目でものを見ることもできます。しゃべることも、聞くことも、眠ることも、走ることだってできるのです。
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