初級翻訳・夢鬼 第15話

夢鬼

あの眠っている時も起きている時も忘れられない葉子のことすら、空へ飛び立つ一瞬で振り落としてしまうほど、怪しい雲にも似た幻影は、黒吉をグイグイと力強く四次元の宇宙へと引きずり込んでいくのでした。
端的に言えば、いつしかそれは「予言の夢」となっていったのです。
思えば、指輪の発見こそが、確かにその「予言の夢」の始まりでした。
夢というものが記憶の反芻(はんすう)だとするなら、空に浮かぶ幻は、未来の夢だったのでした……。

……ある秋の日。
いつものように、黒吉は葉子を介添えにして、あらゆる支えから解放された虚無の空へと、弾丸のように飛び出した瞬間のことでした。
まぶたの裏には、次の町での、大当たりの大成功を収めている一座の様子が、ありありと映し出されたのです。
――そして、次の町で初日の幕を開けてみると、気味が悪いほどの人気ぶりでした。
盛況だった初日が終わり、急にひっそりと静まり返った小屋の中に、親方の珍しく上機嫌な笑い声が、久しぶりに巡ってきた春のように響き渡りました。
やはり大入り満員だと、誰だってウキウキするものです。
「さあ、みんな。皆、集まったか」
親方は舞台衣装のタキシード姿で、自慢のひげをなでながら、一座の者たちを見渡しました。
どこからか安いお酒が運ばれてきて、小屋の中はまた、ガヤガヤと賑やかになってきました。
黄ばんだ電灯の下、ガタガタと音を立てる床を踏み鳴らし、酔っ払ったピエロが踊り出すと、いつの間にか印半纏(しるしばんてん)を着た兄ちゃんや、シルクハットをかぶった紳士、甘酸っぱい体臭を漂わせる肉襦袢の女たちが、まるで誰かにネジを巻かれた泥人形のように、ガランとした小屋いっぱいに猥褻(わいせつ)な悲鳴を上げながら、地獄絵巻のような光景を展開していきました。
激しい笑い声が耳元で起こるたびに、黒吉はコツンコツンと自分の頭を叩いていました。
彼はさっきから小屋の片隅で、胡座(あぐら)をかいたまま動けずにいたのです。
ですが、彼の目は充血していました。
(俺が、俺がこないだ見た光景とまったく同じだ……)
次々に展開する異様な風景は、寸分違わぬ「空に浮かぶ夢」の復習でしかありませんでした。
普段は、手が震えるのを恐れて盃(さかずき)にさえ触れない、あの源二郎爺さんまでが酔い痴れている姿までもが――。
背筋に、冷たい汗がスーッと走りました。
あてつけかとも思われる葉子と義公の奇妙なダンスも、また別の意味で、重苦しく覆いかぶさる悪夢でした。
――慌てて飲み込んだ苦い酒が、喉の奥でコロコロと鳴りました。
(どっちが本当なんだ……)
(俺は夢を見ているんじゃないか……)
そんな単純な疑問に、ハタと行き詰まりました。
とても、とても耐えられない――。
黒吉は夢中で、神経を酒に浸してしまおうと焦りました……。

黒吉は、空を飛ぶことに初めて恐怖を味わいました。
と同時に、何か得体の知れない魅力も感じていました。
しかし、次に見た「予言の夢」は、不吉なことに、この一座がひどく客入りの悪い夢でした。
しかも、それがピッタリと、ネガフィルムから焼き付けた写真のように、一分一厘の違いもなく現実のものとなったのです。
座員の数の方が多いのではないかと思うほど、わずかな見物人しか呼ぶことができませんでした。
黒吉は空を飛ぶ時、手を握りしめ、歯を食いしばり、必死の力で飛ぶのです。
(なんとかして、もう一度当てたいものだ)
だが、一体どうしたというのでしょう。
「予言の夢」は、もう幸福を知らせてはくれなくなっていました。
(未来のことを、覗き見したせいかな)
黒吉は頭を振りました。
(それにしても、俺の知ったことじゃない)
彼は癖で、無意識に肩をすくめました。
「こんなことが続いたら解散だ!」
親方はさらに機嫌が悪くなりました。
葉子も、由子も、義公も、仙次も、誰も彼もが暗い陰りを感じながら、次第に言葉を減らしていきました。
源二郎爺さんまでが、座布団を干しながら、ポカンと空を見つめていました。(俺の知ったことじゃないぞ)
黒吉は、心の中でそう怒鳴ってみましたが、やっぱり不安でたまりませんでした。
(俺はただ、前と同じ夢を繰り返しているだけなんだ……)
「それがいけないのだ!」
どこからかそんな声が聞こえたような気がして、黒吉はゾッとしました。
「みんな集まったか――」
親方は何を思ったのか、一座の者たちを呼び集めると口を開きました。
「集まったか。みんなも知っている通り、近頃はさっぱりだ。俺にももうこれ以上はやっていけなくなった。次の町で興行を打って、それでもダメだったら、もう解散だ……」
その後の言葉は、耳に入ってきませんでした。
「解散!」
この一言で十分でした。薄々予感はしていましたが、みんな改めて愕然としました。

「解散!」
黒吉は、不意に背中から突き倒されたような気分になりました。
(葉子と別れることになるんだ――)
そう思うと、解散そのものはそれほど恐ろしくありませんでしたが、葉子と離れ離れにならなければならないという事実が、どうしても耐えられませんでした。握りしめた拳が、思わずぶるぶると震えました。
(畜生! どうしても……)
彼は石にかじりついてでも、「良い夢」を見なければならないと心に決めました。騒がしいジンタ(楽隊)の音が響き渡っても、黒吉はたった一人、楽屋の裏で立ち尽くしていました。
「黒ちゃん、しっかりして……」
いつの間にか舞台衣装に着替えた葉子が、さすがに彼女も「解散」の一言が胸に刺さったのか、いつもより少し顔を引きつらせながら、黒吉の肩を叩きました。
ハッとして顔を上げた黒吉は、
「うん……」
普段なら、彼女に肩を叩かれただけで体が熱くなるほどだったのに、今日はただ一つ、こっくりと頷いたきりでした。
「葉ちゃん、しっかりやろうぜ」
「ええ」
「葉ちゃんと別れるの、つらいからなあ……」
「まあ、何言ってるのさ……一生懸命やってお客が入らなきゃ、どうしようもないじゃないの」
「でも……」
「そんなにくよくよするなら、いっそ落ちて血の海になっちゃいなさいよ……」
「ふん、落ちて死ぬんなら独りじゃ嫌だよ。葉ちゃんも一緒に引きずり込んでやる――」
「まあ、……ふん、どうせそうでしょうね」
彼女はキラリと目を光らせると、蓮っ葉な捨て台詞を残してさっさと行ってしまいました。
黒吉は相変わらず立ち尽くしたまま、葉子の後ろ姿、その異様に蠢く腰の膨らみに、激しい憎悪にも似た誘惑を覚えて目を閉じました。
(どうしても、良い夢を見るぞ……)
目を閉じると、物狂おしいジンタの音が、あたり一面に吹き荒れていました……。

出番になると黒吉は、体にぴったりと張り付いた肉襦袢を着て、わずかな観客に流すような目礼を送ると、じっと天井のブランコを睨みつけました。そして、するすると綱を登りながらも、頭の中は、いや体全体は「良い夢」のことでいっぱいでした。
やがてブランコが小屋全体をギシギシと揺らして、大きく振れ始めると、
「エッ!」
スッと血の気が引き、黒吉は虚空へと飛び出しました。
「あっ――」
と観客の数人が低くうめき声を上げた時には、もう黒吉の体は、葉子のブランコに移り変わって一呼吸おいた後でした。

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