初級翻訳・夢鬼 第18話

夢鬼

 どうせ足を切るなら、いっそのこと左足も、右手も、左手も、全部いっぺんに切ってしまえばよかったんだ。
 だって、もう二度と、ぼくはあの空を飛ぶことはできないんだから。そうだよ、もうあの空を飛ぶことはできないんだ。
 ――すると、そのときです。
 黒吉の頭の中に、サーカスの曲芸をしているときの、あの不思議な空の感覚がワーッと思い浮かんできました。まるで激しい波が押し寄せてくるみたいに、その思い出が頭の中をかけめぐります。
(もう一度、たった一度でいいから、あの最高の気持ちを、思いっきり味わってみたい……!)

八の三

 次の日になりました。黒吉は、もう片方の足がないことはあきらめていましたが、それでも「空を飛びたい!」という気持ちは、ますます強くなるばかりでした。
 あの、グーン、グーンと体中にひびく、ブランコの心地よいリズム!
「あっ!」と思ったしゅんかん、空中に飛び出してフワリと浮く、あの夢のような最高の気分!
 そして、ふと目の前に浮かんでくる「明日の夢」!
 それは、なんてワクワクする、魅力的なものだったでしょう。
 黒吉は、ふつうの人には決して見ることができない「昼間に見る不思議な夢」のとりこになってしまったのです。
 体をささえるものが何もない、空中にいるときだけ、どうしてあんなにすごくて、しかもゾッとするほど正確に当たる「明日」のことが見えるのでしょうか。
 それは、とてもかんたんには説明できない、不思議な心の現象でした。
 でも、黒吉にとっては、それが魔法だろうが何だろうが、そんなことはどうでもいいことでした。
 まるでこわい薬におぼれてしまった人のように、そのあとにどんな結果が待っていようと、知ったことではありません。
 ただ、その夢の中にどっぷりとつかっていられれば、それだけで幸せだったのです。
 黒吉は、一日中、シミだらけの天井をじっと見つめたまま、そのことばかりを考えていました。

 コツ、コツ、コツ……。
 廊下を歩く足音が、黒吉の部屋の前でピタッと止まりました。
「もう入ってもいいですか……?」
 という声が聞こえます。それはたしかに、黒吉の耳に残っている、あの「女の人」の声でした。
「葉ちゃん(葉子)!」
 足のことや空を飛ぶことばかり考えていて、忘れかけていた大好きな子の名前を、ハッと思い出しました。
 それと同時にドアが押し開けられましたが、しずかに入ってきたのは、期待していた葉ちゃんではなく、あの由子(よしこ)ちゃんの姿でした。
「由子ちゃん……か」
 黒吉は、あからさまにガッカリして、起こしかけていた体をベッドに戻しました。
「黒ちゃん、具合はどう?」
「うん……」
「でも、こんなに早く元気になって、本当によかったわねえ」
「うん」
「……まだ気分が悪いの?」
「ううん、もうすっかり大丈夫だよ」
「そう、よかったわ」
「葉ちゃんは……?」
「葉ちゃん?」
 由子ちゃんは一瞬、嫌そうな顔をしましたが、すぐに何でもないようなふりをして答えました。
「葉ちゃんならね、サーカスが解散してすぐに、義公(ぎこう)さんと一緒に東京の親戚のところへ行くって言って、出て行ったわよ」
「義公さんと……!?」
 黒吉は、胸がカッと熱くなるのを感じました。
 大好きな葉ちゃんが、あの気取っていて色白な義公と一緒に、まるで新婚さんみたいに仲良く汽車にゆられて行ってしまったのか……。そう思うと、目の前がクラクラするほど嫌な気持ちになり、心臓がドキドキと激しく波打ちました。
「葉ちゃんもひどいわよね。一度くらい、黒ちゃんのお見舞いに来ればよかったのに……」
 由子ちゃんは、わざと黒吉を不安にさせるような言い方をして、顔をのぞきこんできました。
(ちぇっ、何を言ってやがんだ……)
 と言い返したい言葉が口まで出かかりましたが、声にはなりませんでした。
 ただ口がぴくぴくと震えてゆがむと、なぜか涙がボロボロとこぼれ落ちました。
「あら、どうしたの……」
「ううん、なんでもない。ちょっと足が痛かっただけだよ……」
 黒吉は顔をそむけました。
 本当は足じゃなくて、胸の中が引き裂かれるほど痛かったのです。
 しばらくして、黒吉はやっと顔をこちらへ向けました。
「由子ちゃん、ごめんね。何度も見舞いに来てくれたんだろう? ……由子ちゃんは、どこにも行かないの?」
「あら、謝らなくていいわよ。お見舞いに来るのは当たり前じゃない。私、黒ちゃんがかわいそうだし、それに……」
 最後の言葉は、口の中で消えてしまいましたが、それでも黒吉にはその意味が十分伝わりました。
「由子ちゃん、親切にしてくれてありがとう。でも、ぼくはもう、前よりもずっと、みにくい見た目になっちゃったんだ。おまけに、片足がなくなって、まともに歩けない体になっちゃったんだよ……ふふふ」
 黒吉の声は、力なくかすれていました。
「知ってるわよ……だから、もっと助けてあげたいと思ったの」
「ふん、なまいき言ってるなあ」
「いいの、いいのよ。私は、あなたの性格が好きなの。顔のことや、足のことなんて、ちっとも気にならないわ……」
 由子ちゃんは、さすがに少し顔を赤くして、横を向きました。
 赤くなった耳にかかった数本の髪の毛が、かすかに震えています。
 黒吉は、まるで女の子とは思えないような由子ちゃんのハッキリとした言葉に、ただただ、びっくりしてしまいました。
 あの、舞台衣装を着て元気に飛び回っていた、おしゃべりな由子ちゃん。それが今は、少し古びてはいるけれど着物を着て、大人のような帯をしめています。その姿は、言葉の通り、もうすっかり大人の女性に見えるのでした。由子ちゃんからは、春の草のような、イキイキとしたエネルギーがあふれていました。体中を流れる血の音が、ドクドクと聞こえてきそうなほどです。
少しきつそうな服から見える胸のふくらみや、腰のきれいなライン。それは、大好きな葉ちゃんのように胸を締めつけるような美しさとはちがったけれど、ポカポカと温かみのある、まぶしいほどの「生きている美しさ」でした。

八の四

 黒吉は、そっと目をつむりました。
 こんなに若くて元気な由子ちゃんが目の前に来てくれたのに、どうしてか、そのことを忘れなきゃいけない……そんな気がしていました。
 黒吉の心の中には、あのオシャレで魅力的な「葉ちゃん」の姿が、焼きついたようにハッキリと残っていたのです。
(葉ちゃんは、義公(ぎこう)さんと一緒に行っちゃったんだ)
(葉ちゃんは、お前みたいなやつのことなんて、もう何とも思ってないんだぞ)
 自分にそう言い聞かせても、やっぱりあきらめきれない、未練(みれん)たっぷりの黒吉でした。
「由(よ)っちゃん、ぼく、ここを出たらまた曲芸をやりたいんだ……」
 黒吉は、話題を変えるように話しかけました。
「えっ、そんな……その不自由な体で?」
「でも、ぼくには、あの空中ブランコで空を飛ぶ気持ちが忘れられないんだ。何もかも忘れて、ただ飛びたいんだよ」
「でもね……。

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