(僕の楽しい夢、僕の素晴らしい天国は、もう粉々にぶち壊されてしまうんだ……)
(これまで、あの「空の白昼夢」が外れたことはない――だとしたら、この不吉な「予言」も、きっと本当になってしまうに違いない――)
なんという恐ろしいことでしょう。
物心がついてから、ずっと心の支えとして、何よりも大切に愛し、尊敬し、追い求めていた、憧れの「葉ちゃん」が、自分を捨てて、結婚してしまうのです。
――最近の、残酷なまでに冷たかった葉ちゃんの態度から見て、
(そんなことになりはしないか……)
とビクビク恐れていたことが、いよいよ現実になろうとしているのです。
この世に咲いた、一番美しい花のような「葉ちゃん」。命よりも愛した「葉ちゃん」――。それが、むざむざと見知らぬ男の、いやらしい腕の中に抱かれようとしているのです。
(なるほど、僕は体が不自由だ。おまけに、顔も化け物みたいだ……)
でも、この顔は生まれつきです。それに、かつて葉ちゃんは、その顔の僕と、固い固い約束をしたじゃないか。そして、子供の頃に「人を好きになること」を教えてくれたのは、葉ちゃんだったじゃないか――。体が不自由になってしまったのだって、もとはといえば、大好きな葉ちゃんと離ればなれになるのがつらくて、サーカス団がバラバラになるのを恐れるあまり、「明日」という未来をのぞき見ようとして失敗したからだったのです。
弱虫で臆病者だと言われていた黒吉を、サーカス団のスターにしてくれたのも葉ちゃんでした。お母さんを知らない黒吉に、初めて女の子の優しさを教えてくれたのも葉ちゃんでした。
初めての恋も、初めてのキスも……黒吉のこれまでの思い出は、どれもこれも葉ちゃんなしでは考えられないことばかりでした。
それなのに今、黒吉は、人生で初めての、涙があふれるような悲しい「失恋」を、その葉ちゃんから突きつけられようとしているのでした。
そう思っただけでも、ゾクゾクと鳥肌が立つほどおそろしい気持ちになりました。
「どうしてこんなことになってしまったんだろう」と、黒吉は怖くてたまりませんでした。
(どうか、あの不吉な夢が、本当になりませんように……)
(今のままでいい。優しい言葉をひとつもかけてもらえなくても、冷たい目で見られてもいい。ただ毎日、彼女のそばにいられるだけで、それだけでいいんだ……)
黒吉は、もうじっとしていられなくなりました。
うす暗くなってきた、だだっ広い飛行場を横切って、いそいで居酒屋「千鳥」へと向かいました。
十一の三
夕日は、不気味なほど赤黒く、まるで血のような色をしていました。
なにか悪いことが起こる前ぶれのような、不気味な静けさが原っぱ全体を包み込み、夕方のモヤが、重苦しくあたりに立ちこめていました。
そして、冷たい暗い風が、ザワザワと雑草をなびかせて吹き抜けていきます。
行く手に、ぼんやりと居酒屋「千鳥」のあかりが見えてきたそのとき、ひとりの若い女の子の後ろ姿が、影絵のように浮かび上がって見えました。
(あれは……葉ちゃんかな?)
独特の、大人びた様子で腰をゆらしながら歩くその女の子は、間違いなく葉ちゃんでした。
(くそっ……! あのお金持ちの化粧品屋の男に、会いに行くんだな……)
黒吉は、頭にカッと血がのぼり、体が熱くなっていくのを感じました。
そして、足が不自由だとは思えないほどの、おそろしい速さで原っぱを走り出したのです。
「葉ちゃん――!」
やっと追いついた黒吉は、裏返った、かすれた声で、飛びかかるようにして呼び止めました。
「えっ――」
ハッと振り向いた葉ちゃんの顔には、一瞬、おそろしいものを見たときのような、本能的な恐怖の影が走りました。
「葉ちゃん……毎日顔を合わせているけれど、こうして二人きりで『葉ちゃん』って呼べたのは、本当に何ヶ月ぶりだろう」
葉ちゃんは黙ったままです。
「そんなに嫌そうな顔をしなくてもいいじゃないか。……そんなに僕のことが嫌いなのかい?」
葉ちゃんは何も答えません。
「僕は、僕はね、命がけで葉ちゃんのことを思っているんだよ。ねえ、少しは僕の気持ちに気づいてくれたっていいじゃないか」
それでも、葉ちゃんは黙っています。
「何か返事をしておくれよ……。また、あの色白の、化粧品屋の息子に会いに行く途中なのかい?」
「ええ、まあね。でも、どうしてそれを知っているの……?」
「ふっふっふ、驚いたかい? 僕はなんでも知っているんだよ」
「そんなことないわ。今はちょっと、用事があって来ただけよ」
葉ちゃんも、あまりに真剣な黒吉の迫力に、少し気の毒になったのか、しんみりとした声でそう言いました。けれど、雲の間から差し込んだ月の光に、キズだらけで見る影もなくなってしまった黒吉の顔が照らされると、ゾッとして、吐き捨てるように言いました。
「黒ちゃん、もうお互いにサヨナラしましょう。それがお互いのためよ。うふふ、ねえ黒ちゃん、もう昔の約束はなしにしましょう。サーカス団が解散したのと一緒に、私たちも他人に戻るのよ。……少しでも私に優しくしてもらえたんだから、あなたは幸せ者だと思いなさい。私はね、これからあなたの言う通り、あの人に会いに行くの。今夜はあっちに泊まるんだから。うらやましいでしょう?」
モヤのすき間から差し込む弱い月明かりの中でも、彼女の顔には、黒吉にとって、もう完全に絶望するしかないような、冷たくて鋭い表情が浮かんでいました。
「葉ちゃん、もう一度だけでいいんだ。その手を握らせておくれ。きゅっと抱きしめさせておくれ。それだけでいい、僕はそれだけで満足するんだから。ねえ、もう一度だけ……」
「何を言っているのよ、足の不自由なバカね。あなたの顔は、まるで化け物そっくりよ。変なの、そんな顔でよくもまあ、ずうずうしいことが言えたものね。せいぜい、由っちゃんでも抱きしめていればいいじゃない!」
秋の飛行場は、寂しい闇に包まれていきました。
あたりはすっかり暗くなり、怒りに燃え上がった黒吉の瞳は、恐ろしい光を宿してギラギラと輝きました。そのいびつな体からは、激しくて荒い息が漏れ出ていました。
「うう……くそっ!」
黒吉がうめき声を上げると同時に、彼の左手は、もう葉ちゃんの白い首に伸びて、ぎゅっとつかみかかっていました。
「な、何するのよ!」
葉ちゃんはその手を振り払い、黒吉の足が不自由なのをバカにして、身をひるがえして逃げ出そうとしました。その瞬間でした。
頭に血がのぼって我を忘れた黒吉は、持っていた松葉杖を大きく振りかざすと、ありったけの力を込めて、めちゃくちゃに葉ちゃんを叩きつけました。
「キャッ!」とたった一声の悲鳴を上げて、葉ちゃんはあっけなくその場に倒れてしまいました。
今の黒吉は、もうすっかり怒りの悪魔に心を奪われていました。
彼は握りしめていた松葉杖を放り出すと、
「くそっ……! 畜生……!」
と狂ったように叫びながら、いきなり倒れた葉ちゃんの上にかぶさるようにして、力まかせにその首をグイグイと締め上げていくのでした。――それから、だれもいない静かな原っぱで、どれほど残酷なことが行われたのでしょうか。
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