初級翻訳・妖怪博士 第7話

妖怪博士

あのね、ぼくを身動きできないように、細いロープで縛ってほしいんだ。」
 お母さまは、「まあ。」と言ったきり、言葉も出ない様子で、悲しそうな目で泰二君を見つめました。
子どもがお母さまに「縛ってくれ」と頼むなんて、正気の沙汰とは思えません。
泰二君は、本当にかわいそうに、気がおかしくなってしまったのでしょうか。
「ねえ、お母さん、お願いです。」
「何を言っているの。
泰ちゃん、それ冗談なんでしょう。
そんなことを言って、お母さんをびっくりさせて、あとで笑おうと思っているんでしょう。」
「ううん、冗談なんかじゃないんだ。
ぼく、本気なんだよ。
本当に縛ってくれないと、安心ができないんだ。」
「まあ、本気でそんなことを言っているの? じゃあ、理由を話してごらん。
お母さんがおまえを縛ったりなんかできると思って?」
「理由は、ぼくにもよくわからないんだ。
でも、どうしてもそうしなければ、安心できないの。
ねえお母さん、縛ってください。
お願いです。
そうしないと、ぼく、気が狂いそうなんだ。」
 泰二君の青ざめた顔を見ると、心の中で何か激しく苦しみもだえていることが、はっきりとわかります。
気が狂いそうだというのも、まんざらうそとは思えません。
お母さまは困ってしまいました。
あいにく、お父さまは会社の仕事で関西の方へ旅行中ですし、家にはお召し使いの者たちばかりで、こんなときの相談相手にはなりません。
「ねえ、早く縛ってください。
そうしないと、ぼく、死んじゃいそうです。」
 泰二君は、とても苦しそうに体をよじり、ポロポロと涙をこぼしています。
それを見るとお母さまも、どうしようもなく悲しくなって、襦袢(じゅばん)のそでで目のふちを拭いました。
「いいよ、いいよ。
じゃあ、お母さんが縛ってあげるからね、そんなにもがくんじゃないの。
静かにして待っていらっしゃいね。」
 お母さまはとにかく、泰二君を安心させるために、気休めにでも細いロープで縛ってやるほかないと考えたのです。
そして、納戸(なんど)へ行って荷物を縛る細いロープの束を持って、泰二君のそばへ戻りましたが、いくら本人の頼みとはいえ、親がわが子を縛るなんて、形だけでも嫌な気がするものですから、「どうしたものかしら」とためらっています。すると泰二君は、そんなことはおかまいなしに、早く早くとせがむのです。
やっぱり縛るほかありません。
これ以上イライラさせたら、本当に気が狂わないとも限りません。
それほど泰二君は真剣なのです。
そこで、お母さまは慣れない手つきで、とても悲しそうな顔をしながら、寝ている泰二君の手と足に細いロープをぐるぐる巻きにして、形ばかりに縛ってみせました。
「もっと、きつく縛ってください。
絶対にほどけないように、強く結んでください。」
「いいとも、いいとも、うんときつく結んだよ。
さあ、これでいいかい? じゃあね、じっと心を落ち着かせてね、もう何も考えないで眠るんだよ。」
お母さまはそう言いながら、脱いであった掛け布団を泰二君の上にかけてやり、その上から、まるで赤ん坊をあやすように、軽くトントンとたたいてやるのでした。
しばらくそうして様子を見ていると、泰二君はやっと安心したのか、やがてスースーと静かな寝息を立てて眠りこみました。
お母さまはそっと泰二君の額に手を当ててみましたが、別に熱を持っている様子もありません。
また布団の中に手を入れて、泰二君の縛られている手首に触れてみても、脈は普段と変わりないことがわかりました。
「これなら、お医者さまを呼ぶほどのことでもなさそうだね。
まあ、明日の朝までそっとして、様子を見てみましょう。」
お母さまはそう考えて、そのまま自分の部屋へ戻りました。
ところがその夜中、一時ごろのことです。
自分の部屋で休んでいたお母さまは、ふと変な物音に目を覚ましました。
誰かが廊下を忍び足で歩いているような物音なのです。
お父さまは留守ですし、奥の書斎には大切な会社の秘密書類がしまってありますから、もし泥棒でも入ったのでしたら一大事です。
お母さまは怖いのも忘れて、寝間着のまま起き上がり、そっと廊下に出てみました。
大半の電灯は消してありますので、廊下の向こうの方は真っ暗で先が見通せません。
でも、その暗闇の中に、何やら人間のものらしい黒い影がゆっくりと動いているのが、かすかに見えるではありませんか。お母さまはギョッとして、今にも叫び声をあげそうになりましたが、「もしそんなことをして、泥棒が向かってきたら大変だ」と、のどまで出かかった声を必死にグッと飲み込み、じっとその人影を凝視しました。
すると、暗さに目が慣れてくるにつれて、少しずつ周囲の形が見分けられるようになり、あやしい人影の大きさや輪郭だけははっきりと分かってきました。

「おや、泰ちゃんじゃないかしら……?」

なんと、その怪しげな人物の背の高さは十二、三歳くらいで、後ろ姿が泰二君そっくりだったのです。
さきほど、お母さまは泰二君の体を縛りましたが、もちろん形ばかりの気休めで細いロープをぐるぐる巻いただけですから、やろうと思えば泰二君自身で簡単にほどくことができました。
お母さまは、それが間違いなく泰二君だと気づくと、泥棒に入られたときよりも、もっと恐ろしい気持ちになりました。
いよいよ泰二君は気がおかしくなってしまったのではないか、あるいは、何か恐ろしい悪魔にとりつかれてしまったのではないか、と考えたからです。

そこで、お母さまは足音を立てないように忍ばせながら、そっとその黒い影に近づいていき、
「泰ちゃん、泰ちゃん……」
と、小声で呼びかけました。
そこまで近づいてみると、もう間違いなく、その怪人物は泰二君でした。
それなのに、いくら声をかけてまるで耳が聞こえない人のように、返事もしなければ、振り返ろうともしないのです。

そして、泰二君はそのままズンズンと廊下を進み、お父さまの洋室の書斎の前まで来ると、いきなりドアを開けて中へ入っていくではありませんか。
お母さまはあまりの気味の悪さに、もう声をかける勇気すら出ず、ただ胸をドキドキと早鐘のように打たせながら、ドアの外からわが子の様子をじっと見つめているばかりでした。

書斎に入った泰二君は、まず壁のスイッチを押して電灯をつけ、それからわき目もふらずに部屋の片隅へと歩いていきました。
お母さまは、ふと「もしかして泰二君は夢遊病にかかったのではないかしら」と疑いました。
夢遊病というのは、本人は眠っているため自分がしていることを少しも知らずに、寝床から抜け出してその辺りを歩き回る病気のことですが、泰二君が一点をぼんやりと見つめたまま、フラフラと歩いていく様子は、まさにその夢遊病のようだったのです。

泰二君は、お父さまの大きな机の前に近づくと、その机の足をくり抜いて作ってある秘密の小さな引き出しを開け、一束のカギを取り出しました。
それからそのカギの束を右手にぶら下げたまま、また夢遊病者のような足取りで部屋の反対側の隅へと歩いていき、大きな鋼鉄製の書類箱の前にしゃがみ込みました。そして、手に持ったカギを鍵穴に差し込み、いとも簡単に書類箱のフタを開けてしまったのです。

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