それを見ているお母さまは、気が気ではありませんでした。
今、泰二君が開けた書類箱の中には、会社の大切な秘密書類が入っているのです。
いや、会社にとって大切であるばかりではありません。
この秘密書類がもし外国のスパイなどの手に渡るようなことがあれば、国にとっても大変な大問題になってしまうのです。
泰二君のお父さまは、「東洋製作工場」という大きな製造工場の技師長をしていらっしゃいますが、その工場で作っている機械の部品の設計図や、見積書、注文の数量、引き渡しの期日などが詳しく書かれた書類が、ちょうど今、お父さまの手もとに届いており、その金庫のような書類入れの中に大切に保管されていたのです。
お父さまは、関西へ旅行に出かけるときにも、「あれは会社だけの秘密ではなく、国の秘密なのだから十分に注意するように」と、何度も念を押して出発されたほどでした。
ですから、たとえ泥棒が侵入したとしても、その鋼鉄箱を開けるカギは大机の足の秘密の隠し場所にしまってあるのですから、まさか見つけられるはずがないとお母さまも安心して気を緩めていたのです。
ところが、泥棒は外からではなく、家の中にいたのです。
しかも、お父さまとお母さまが一番かわいがっている泰二君なのですから、机の足にある秘密の場所など当然聞き知っていましたし、鋼鉄箱を開けることなど朝飯前だったのです。
それにしても、泰二君は本当におかしくなってしまったのでしょうか。
まるで本物の泥棒のように、真夜中にこっそり起き出して書斎に忍び込み、お父さまの大切な書類箱を開けるなんて、まったく想像もできないほど恐ろしいしわざではありませんか。
これにはきっと、何か深いわけがあるに違いありません。
その裏には、妖魔の恐ろしい呪いのようなものが潜んでいるとしか思えませんでした。
やがて、泰二君はついに書類箱の引き出しの中からその秘密書類をつかみ出すと、もとどおりに鋼鉄箱のフタを閉め、カギの束を秘密の隠し場所に戻し、スイッチを押して電灯を消しました。そして、何事もなかったかのように、再び夢遊病者のような足取りで、書斎から出てくるのでした。お母さまは、もうじっと見ているわけにはいきませんでした。
力ずくでも書類を奪い返そうと、いきなり泰二君の行く手をふさぎ、「泰ちゃん、お前、何をするんです!」と、激しい語気でお叱りになりました。
「泰ちゃん、しっかりしなさい、お前、夢でも見たんじゃないの? それ、何だと思っていますの? お父さまの大事な大事な書類じゃありませんか。さあ、お返しなさい。それが悪い人の手に渡ったら、それこそ大変なんだから」
しかし、催眠術の魔力によって別人のようになった泰二君は、お母さまを見向きもしなければ、その言葉を聞こうともせず、おしのけるようにしてグングン廊下の向こうへ立ち去ろうとします。
「これ、泰ちゃん、泰ちゃんたら!」
お母さまはパジャマの袖をつかんで引きとめようとなさいましたが、泰二君はそれを激しい勢いではらいのけると、ヒョイと振り返って、ゾッとするほど恐ろしい顔でお母さまをにらみつけました。
お母さまはそれをご覧になると、我が子ながらその形相の恐ろしさに、思わず立ちすくんでおしまいになりました。
なんだかいつもの泰二君とまったく違った人のように見えたからです。
ひょっとしたら、催眠術をかけている蛭田博士の魂が泰二君に乗り移って、顔までもあの不気味な蛭田博士とそっくりになっていたのかもしれません。
あまりの恐ろしさ悲しさに、お母さまがためらっていらっしゃる間に、泰二君は廊下の窓に近づくと、手早く掛け金を外して窓を開け、アッと言う間に外の暗闇へとびだしていってしまいました。
それは人間わざとは思われぬほどの素早さでした。
一匹の大きな大きなコウモリがサッと目をかすめて飛んでいったような、なんともいえぬもの恐ろしい感じでした。
お母さまはそのまま倒れてしまうほどの激しい胸騒ぎをじっとこらえて、ヨロヨロと窓に近づき、真っ暗な広い庭を透かすようにして覗いてご覧になりました。
すると、大入道のような大樹がムクムクと繁っている闇の中を、大小二つの人影が物の怪のように走り去っていくのが眺められました。
小さい方の黒い影が泰二君であることはわかっていますが、もう一つの大きい人影はいったい何者でしょう。
お母さまは少しもご存じありませんでしたが、それはあの蛭田博士だったのでした。
博士はいつの間にか相川邸の庭園に忍び込み、泰二君が首尾よく目的を果たすかどうかを、窓の外の暗闇からリンのように光る恐ろしい目でじっと見守っていたのでした。
泰二君が書類を盗み出すと、博士はその眼光をいっそう鋭くし、催眠術の念力を強めて、泰二君に窓の外へ逃げ出すようにと無言の命令を伝えたのです。
そして、とびだしてくる泰二君の手をとると、恐ろしい勢いで闇の中をグングン走りだし、あらかじめ開けておいた裏口から、どことも知れず逃げ去ってしまったのです。
蛭田博士は、泰二君のお父さまの大切な書類を手に入れたら、もう泰二君に用はないはずではありませんか。
書類だけ受け取って逃げ出せばよいはずではありませんか。
しかし博士は泰二君の手を離そうともしなかったのです。
またしても泰二君をどこかへ連れ去ってしまったのです。
いったいこれはどんな意味があったのでしょうか。
それはともかく、この不思議なありさまをご覧になったお母さまの驚きは申すまでもありません。
けたたましい叫び声を立てて救いをお求めになりましたから、召使いたちも起きてきますし、それから近所の人たちが集まってくる、電話の訴えによって数名の警官が駆けつけてくるという大騒ぎになりました。
そして、その夜中から朝にかけて厳重な捜索がおこなわれたのですが、泰二君が何者によってどこへ連れ去られたのか、想像さえつきませんでした。
庭の柔らかい土の上に、泰二君の素足の足跡とならんで、大人の靴の跡が点々と残っていました。
それによっても何者かが泰二君を連れ去ったことは明らかですが、泰二君は蛭田博士邸でおそろしい目にあったことをお母さまにも打ち明けなかったものですから、その靴跡の主が何者であるか、だれにもまったく見当さえつきませんでした。
翌日のお昼すぎには、泰二君のお父さまが電報の通知を受け取って、とるものもとりあえず関西の出張先から特急こだまでお帰りになる、お父さまの会社では緊急幹部会議を開いて重要書類紛失の善後策を講じる。
この犯人捜索には警視庁管下の全警察をあげてあたるという、ものものしい大事件になってしまいました。その日の夕刊には、泰二君の不思議な家出のことが大きく取り上げられ、この事件の裏にはおそるべきスパイの魔の手がうごめいているのではないかと書き立てられました。そのため、泰二君の学校の友達にも、このニュースはたちどころに知れわたることになりました。
担任の先生はもちろん、クラスの友達もみんな非常に驚いて、泰二君の身の上を心配しました。中でもとくに胸をドキドキさせて心配していたのは、大野君、斎藤君、上村君という三人の少年探偵団員でした。
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