初級翻訳・家なき子 第2話

家なき子

道は遠いし、お金がかかる。
そのあくる朝、わたしは村へ行ってぼうさんに相談した。
ぼうさんは、まあ向こうへ行って役に立つかどうか、それがよくわかったうえにしないと、つまらないと言った。
それでぼうさんが代筆をして、バルブレンのはいっている慈恵病院の司祭にあてて、手紙を出すことにした。
その返事は二、三日して着いたが、バルブレンのおっかあは来るにはおよばない、だが、ご亭主が災難を受けた相手にかけ合うについて、入費のお金を送ってもらいたいというのであった。
それからいく日もいく週間もたった。
ときおり手紙が届いて、そのたんびにもっと金を送れ金を送れと言って来る。
いちばんおしまいには、これまでの手紙よりまたひどくなって、もう金がないなら、雌牛のルセットを売っても、ぜひ金をこしらえろと言って来た。
いなかで百姓の仲間にはいってくらした者でなければ、『雌牛を売れ』というこのことばに、どんなにつらい、悲しい思いがこもっているかわからない。
百姓にとって、雌牛のありがたさは、一とおりのものでなかった。
いかほどびんぼうでも、家内が多くても、ともかくも雌牛が飼ってあるあいだは、飢えて死ぬことはないはずだ。
それにうちの雌牛は、なにより仲よしのお友だちであった。
わたしたちが話をしたり、その背中をさすってキッスをしてやったりすると、それはよく聞き分けて、優しい目でじっと見た。
つまりわたしたちはおたがいに愛し合っていたと言えば、それでじゅうぶんだ。
けれどもいまはその雌牛とも、わたしたちは別れなければならなかった。
『雌牛を売る』それでなければ、もうご亭主を満足させることはできなかった。
そこでばくろう(馬売買の商人)がやって来て、細かく雌牛のルセットをいじくり回した。
いじくり回しながらしじゅう首をふって、これはまるで役に立たない。
乳も出ないしバターも取れないと、さんざんなんくせをつけておいて、つまり引き取るには引き取るが、それもおっかあが正直な、いい人で気のどくだから、引き取ってやるのだというのであった。
かわいそうに、ルセットも、自分がどうされるかさとったもののように、牛小屋から出るのをいやがって鳴き始めた。
「後ろへ回って、たたき出せ」とばくろうはわたしに言って、首の回りにかけていたむちをわたした。
「いいえ、そんなことをしてはいけない」とおっかあはさけんだ。
それでルセットのはづな(馬の口につけて引くつな)をつかまえながら、優しく言った。
「さあ、おまえ出ておくれ。ねえ、いいかい」
 ルセットはそれをこばむことができなかった。
それで往来へ出ると、ばくろうはルセットを車の後ろにしばりつけた。
馬がとことこかけだすと、ルセットはいやでもあとからついて行かなければならなかった。
わたしたちはうちの中にはいったが、しばらくのあいだまだルセットの鳴き声が聞こえていた。
もう乳もなければバターもない。
朝は一きれのパン、晩は塩をつけたじゃがいものごちそうであった。
雌牛を売ってから四、五日すると、謝肉祭が来た。
一年まえのこの日には、バルブレンのおっかあが、わたしにどら焼きと揚げりんごのごちそうをこしらえてくれた。
それでたくさんわたしが食べると、おっかあはごきげんで、にこにこしてくれた。
けれどそのときは揚げ物の衣がパン粉をとかす乳や、揚げ物の油のバターをくれるルセットがいた。
もうルセットもいない、乳もない、バターもない、これでは、謝肉祭もなにもないと、わたしはつまらなそうに独り言を言った。
ところがおっかあはわたしをびっくりさせた。
おっかあはいつも人から物を借りることをしない人ではあったが、おとなりへ行って乳を一ぱいもらい、もう一けんからバターを一かたまりもらって来て、わたしがお昼ごろうちへ帰って来ると、おっかあは大きな土なべにパン粉をあけていた。
「おや、パン粉」とわたしはそばへ寄って言った。
「ああ、そうだよ」と、おっかあはにっこりしながら答えた。
「上等なパン粉だよ、ご覧、ルミ、いいかおりだろう」
 わたしはこのパン粉をなんにするのか知りたいと思ったが、それをおしてたずねる勇気がなかった。
それにきょうが謝肉祭だということを思い出させて、おっかあをふゆかいにさせたくなかった。
「パン粉でなにをこさえるのだったけね」とおっかあはわたしの顔を見ながら聞いた。
「パンさ」
「それからほかには」
「パンがゆ」
「それからまだあるだろう」
「だって……ぼく知らないや」
「なあに、おまえは知っていても、かしこい子だからそれを言おうとしないのだよ。
きょうが謝肉祭で、どら焼きをこしらえる日だということを知っていても、バターとお乳がないと思って、言いださずにいるのだよ。
ねえ、そうだろう」
「だって、おっかあ」
「まあとにかく、きょうのせっかくの謝肉祭を、そんなにつまらなくないようにしたつもりだよ。
このはこの中をご覧」
 わたしはさっそくふたをあけると、乳とバターと卵と、おまけにりんごが三つ、中にはいっていた。
わたしがりんごをそぐ(小さく切る)と、おっかあは卵を粉に混ぜて衣をしらえ、乳を少しずつ混ぜていた。
衣がすっかり練れると、土なべのまま、熱灰の上にのせた。
それでどら焼きが焼け、揚げりんごが揚がるまでには、晩食のときまで待たなければならなかった。
正直に言うと、わたしはそれからの一日が、それはそれは待ち遠しくって、何度も、何度も、おさらにかけた布を取ってみた。
「おまえ、衣にかぜをひかしてしまうよ。
そうするとうまくふくれないからね」とかの女はさけんだ。
けれど、言うそばからそれはずんずんふくれて、小さなあわが上に立ち始めた。
卵と乳がぷんとうまそうなにおいを立てた。
「そだを少し持っておいで」とおっかあが言った。
「いい火をこしらえよう」
 とうとう明かりがついた。
「まきを炉の中へお入れ」
 かの女がこのことばを二度とくり返すまでもなく、わたしはさっきからこのことばの出るのをいまかいまかと待ちかまえていたのであった。
さっそく赤いほのおがどんどん炉の中に燃え上がり、この光が台所じゅうを明るくした。
そのときおっかあは、揚げなべをくぎから外して火の上にのせた。
「バターをお出し」
 ナイフの先でかの女はバターをくるみくらいの大きさに一きれ切ってなべの中へ入れると、じりじりとけ出してあわを立てた。
もうしばらくこのにおいもかがなかった。
まあ、そのバターのいいにおいといったら。
わたしがそのじりじりこげるあまい音楽にむちゅうで聞きほれていたとき、裏庭でこつこつ人の歩く足音がした。
せっかくのときにだれがじゃまに来たのだろう。
きっとおとなりからまきをもらいに来たのだ。
わたしはそんなことに気を取られるどころではなかった。
ちょうどそのときバルブレンのおっかあが、大きな木のさじをはちに入れて、衣を一さじ、おなべの中にあけていたのだもの。
するとだれかつえでことことドアをたたいた。
ばたんと戸が開け放された。
「どなただね」とおっかあはふり向きもしないでたずねた。
一人の男がぬっとはいって来た。
明るい火の光で、わたしはその男が大きなつえを片わきについているのを見つけた。

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