初級翻訳・尾なし犬 第3話

佐野 良二

頭のなかに湧いていたイメージが一瞬にして消え失せ、黒い怒りが込みあげた。
「そんな言い方することないっしょ、克夫が一番好きなことなのに」
芳枝が兄に抗った。
姉の言葉に克夫の胸は張り裂けそうになった。
怒りは悲しみに変わり、鼻の奥で量を増し、眼から溢れ出た。
「泣くんじゃない、兄さんには絵心がないのよ」
クレヨンを握り締めたまま絵の上に涙を落とす克夫を、芳枝がなだめた。
しかし彼はしゃくりあげ始めていた。
「おいおい、そんなことくらいで泣くのか、いつから泣き虫になった」忠夫はなおも言い募った。
「女のなかにいると軟弱になっていかん。おれがこれから鍛えなおしちゃる」
克夫自身も、そんなことで泣いてしまった自分を悔やんでいたが、彼の最も大切なものを悪しざまに侮辱したことが許せなかった。
兄さんなんて大嫌いだ、鍛えてなんかいるもんか──反抗の気持ちを、彼はいつまでも泣きじゃくることで訴えた。
忠夫に仕事を見つけるべく父は八方手を尽くした。
だが、同業の下駄職人たちの情報にはろくなものがなかった。
そのうち忠夫は自分で漁船に乗る仕事を見つけてきた。
戦友の親戚の者が船主をしている船で、沿海漁業だから危険はない、とのことだった。
しかし、海の事故は起きてしまうと生命にかかわる。
実際、祝津の漁師が横波をくらって甲板から海中へ落ち、行方不明になった事故があったばかりだったので、両親は反対した。
忠夫は、戦地に比べりゃどうってことないさ、と軽く受け流した。
戦後、漁業海域は沿海十二海里と決められていたから、忠夫はその日出かけてその日帰った。
ときどき自転車の荷台に魚箱を積んできた。
魚箱にはカレイやホッケなど、とびきり生きのいい魚が入っていて、忠夫はそれを、余得だ、と言った。
戦争に敗けて食糧の輸入がなくなり、そのうえ大凶作に見舞われ、誰もが腹をすかしていた。
忠夫の稼ぎが一家の食い扶持をささえたので、船に乗ることに反対した母も、ありがたい、ありがたい、と言うようになった。
忠夫がリヤカーで何匹もの鮫を運んできたことがあった。
母が「そんな人も食わんもの何にする」と問うのに、「ここだよ、ここ」と忠夫は自分の頭を指差して笑った。
母は謎々でも解くような顔つきになった。
忠夫は鮫の腹を片っ端から切り裂いて肝臓を取り出した。
それを鍋に入れ、ストーブで煮詰めながら撹拌(かくはん)した。
生臭いにおいが台所に広がって母たちを閉口させたが、彼はおかまいなしだった。
次に苛性ソーダ(かせいそーだ)の溶液を入れて、なおも棒で掻き回し続けた。
泥のような汚いものができあがると、さらに食塩を加えた。
そんなことを根気よく繰り返した。
数日後、木箱のなかに見たこともない蝋(ろう)状のものが固まっていた。
忠夫はそれに包丁を入れ、切り餅くらいの大きさに切った。
その一個を取り出し、流しへ行った。
「さあ、できたぞ。見ろ」
汚れた両手に、その固形物を擦りつけると泡立ってきた。
水で流すと、忠夫の手はきれいになった。
「どうだ、立派な石鹸だべ」彼は自慢気に言った。
「これを売って一儲けしてやる」
そんな粗製濫造(そせいらんぞう)の石鹸がみな売れたというのだから、不思議な世の中だった。
もっともその後、買った者から、汚れが落ちることは落ちるが生臭いにおいがしみつく、と苦情が持ち込まれた。
しかし知り合いの闇屋(やみや)は、ほとんど脅しつけて相手を黙らせてしまったということだった。
忠夫はその益金でメリケン粉を袋ごと買ってきた。
ある日、帰宅した忠夫の後ろから犬が顔を見せた。
痩せて見すぼらしい黒の牡犬(おすいぬ)だった。
波止場にいた野良犬に餌をやっているうちに慣れてしまい、口笛を吹いたらついてきたという。それはお世辞にも可愛いといえる犬ではなく、黒い毛の色もよく見ると、余って要らなくなった絵の具を掻き混ぜたような汚い色だった。
おまけにそいつは尻尾がなかった。
誰かに根元からすっぱり切られてしまったかのように尻の上に何もなく、克夫を笑わせた。
犬は魚箱を運ぶ忠夫にまとわりついていた。
「この犬、飼うの」と克夫は聞いた。
忠夫は黙っていた。
すると母が「人間さえ食っていけんちゅうときに何いうか」と言った。
「……三度三度でなくていいんだ。残り物が出たときにちょっと食わしてやறれば」と忠夫は口ごもって言った。
克夫は兄の言葉が嬉しかった。
ときには乱暴な口をきくが、心根は優しいんだと思った。
野良犬にはバツという妙な名前がついていた。
なぜそんな名がついたのかわからないが、船員仲間でそう呼んでいたし、犬も自分のことと知っていて反応するのだという。
「バツ……」
克夫が呼んでみたが、犬は忠夫の傍らを離れず、こっちをちらっと見たきりだった。
忠夫だけが好き、といわんばかりだった。
忠夫が家に入ってしまうと、玄関の戸の前に坐った。
戸を開けて呼ぶと今度はやってきた。
のろのろ克夫に近づき手をなめた。
怯えているとも媚びているともとれる態度だった。
克夫は、夕食のとき魚の頭や骨を残し、母にまだ食べるところが残っている、と叱られた。
すると忠夫も残った物を克夫のほうへよこした。
兄に気持ちが通じて克夫は嬉しくなった。
姉たちも同じようにした。
バツはそれらの餌を浅ましいほどガツガツして、あっという間に平らげ、物足りなさそうに舌なめずりして克夫を見上げた。
「バツ、来い」
克夫が走ると、今度は走ってついてきた。
いくらも走らないうちに息苦しくなった。
道路にしゃがみ込んだ克夫のまわりを、バツはうるさいほど跳びはねた。
克夫の顔の前で吐く息が生臭かった。
「バツ、おまえはどこから来たんだ」
克夫は頭を撫でてやった。
バツは首をすくめて、舌を出したり引っかえしたりした。
眼ヤニは溜まっているし、耳は引き千切れているし、見れば見るほど情けない犬だった。
気がつくと、尻の上の、尾の名残りと見える傷痕がヒクヒク動いている。
こいつ、嬉しがって尾を振っているんだ! 克夫はバツの胴体を抱きしめた。
ごわごわした毛皮の下に痩せた骨格があるのがわかった。
首筋に耳をつけると心臓の音がゴッゴッと聞こえた。
バツは毎朝、出勤する忠夫の自転車についていった。
忠夫が出港するのを、波止場で小さくなるまで見送っているという。
「兄さんがいない間、じっとそうしているの」
「いや、街をうろついて餌でもあさってんだべ」
「食べ物が見つからんときもあるしょ」
「そうだな、いつも腹をすかしてる。それでおれたちに何か貰おうと思って、船が着くころになると来て待ってるんだ」
波止場にお坐りして海を眺めているバツの姿が眼に浮かんだ。
それは何だか悲しいような光景だった。
「とってきた魚をやるの」
「やらん、魚は売り物だからな」忠夫はきっぱり言った。
「犬が食うのは人間の食い残しだけだ」

克夫が描いた配給取りの絵を、教師の勧めもあって市内の児童美術展に応募した。
しかし、入選発表のなかにその作品は入っていなかった。
「戦後の生活があんなによく描けていたのに、審査員の奴ら、きれいごとにしか眼を向けないんだ。……これに懲りるな。

コメント

タイトルとURLをコピーしました