初級翻訳・尾なし犬 第6話

佐野 良二

帽子を斜めにかぶったアメリカ兵が玄関のところで腰をかがめ、「フサエサン、イマスカ?」と言った。
先日、房枝を送ってきたあの兵士だった。
白人だというのに肌は白ではなく薄いピンク色をしているな、と克夫は観察した。
茶褐色の眉毛の下に埋め込まれている青い目は、まるでガラス細工のように見えた。
仕事場で下駄づくりの作業をしていた父は、すっかり慌てふためいた。
膝についたカンナくずを払いもしないで、克夫を急かして茶の間へと戻った。
ちょうど房枝が部屋から出ていこうとしていたところだった。
父は彼女の肩を押さえて引き止めた。
「何、勘違いしてるのよ。
電話局でお世話になっているマイケル軍曹よ」
 房枝の声を、父は無視した。
房枝以外に英語がわかる者はいないので、忠夫に向かって「追い返せ」と小声で命じた。
忠夫は困惑したまま、どうしていいか分からずに玄関へと出ていった。
「いない、いない」と忠夫は手を大きく振った。
「イナイ……オオ、残念」
 克夫がいつも見上げている大きな背中の兄が、アメリカ兵の前に立つと、あごの辺りまでしかなく、やけに貧弱に見えた。
アメリカ兵はおとなしく引き下がっていった。
だが、彼はそのまま帰ったのではなく、ジープに戻っただけだった。
再び玄関に現れたときには、今度は紙袋を持っていて、それを差し出してきた。
忠夫はためらうことなく、その紙袋を受け取ってしまった。
「仕方向ナイ、サヨナラ」
「サンキュー」
 手を振って去っていくアメリカ兵に、忠夫も手を上げて応えた。
ジープが走り去るのを見送りながら、彼らはほくほく顔で部屋に戻ってきた。
芳枝と克夫がさっそく紙袋の中をのぞき込んだ。
ジープと同じ色の缶詰が、大小あわせて六個も入っていた。
「中身は何だべ」
「英語だからわかんないや」
「房枝、読んでよ」
「……大したもてなしだこと」房枝がふくれっ面をして言った。
「なんだ、そんなもの貰ってきやがって。
突っ返してやればよかったのに」と、父はまだ怒りを残した声で言った。「くれるものは遠慮せんで貰っておくさ。日本人はみんなひもじいんだ」忠夫は言った。
「やっぱりマイケル軍曹は房枝にホの字なのかな」
「…………」房枝は声もなく忠夫を睨んだ。
「まあいい。だが、心配ないって、おれに任しとけ。いざとなりゃあ、仲間に言って別な女を紹介してやらあ」忠夫は唇の端に薄笑いを浮かべて言った。
「ひどい侮辱だわ、いやらしい」房枝は眼に涙を浮かべて、隣の部屋へ入ると叩きつけるように襖を閉めた。
罐詰は、牛肉、パイナップル、グリーンピース、コーンなど、開けるたびに歓声があがるほどの品々だった。それは久しぶりの豪華なご馳走といえた。
雪が降って自転車に乗れなくなると、忠夫は漁の余得を橇に載せて運んできた。それを裏庭の雪のなかに穴を掘って貯蔵し、知り合いの農家や近所の人へ渡りをつけ、穀物と交換したりお金に換えたりした。これがけっこうぼろい儲けになった。
仕事から帰って、いつものように魚箱を裏庭の穴へ運んでいった忠夫が、何やら大声で叫んだ。克夫が縁側のガラス戸から見ると、雪が掘り返されて、魚が何匹も雪の上に食い散らかされていた。足跡からして野良犬の仕業に違いなかった。
「誰も気づかなかったのか」と忠夫は悔しがった。
「さあな、わしは仕事しておったし……」と父は口ごもった。
「どこの犬だ。畜生、ぶっ殺してやる!」忠夫は激怒して言った。スコップを持つ手がぶるぶる震えた。
克夫は一瞬バツのことを思った。もしバツの仕業だったら兄はどうするだろうか、と。しかし兄の剣幕に気押されて、その疑問を口にすることができなかった。
忠夫は即刻、どこからかトラバサミを借りてきた。それを魚を埋めた雪の上に仕掛け、見えないように雪を被せた。
「のこのこ、またやって来るか」と母が聞いた。
「絶対来るさ。味しめたに違いないからな」忠夫は自信あり気な口ぶりだった。
夜になって厳しい寒気に見舞われた。昼間よく晴れて暖かかった分、倍にしてお返しがきたみたいだった。布団にもぐり込んでもすぐ寝つくことができなかった。克夫の意識は裏庭に仕掛けたトラバサミにあった。聞き耳を立てていると頭が冴えてくる気がした。しかし母の入れてくれた湯たんぽが快く、間もなく寝入ってしまった。
……何かがぶつかる音がした。暗闇の中で目覚めた克夫は耳をそばだてた。低く尾を引く唸り声、この野郎、という人間の声。母の向こうに寝ている父が起き、障子を開けて縁側に出ていく。克夫も布団を跳び出した。
父は縁側のガラス戸を透かして外を覗いていた。その後ろにしがみついて克夫も覗いた。雪のなかに棍棒を振り上げた人影が動く。棍棒は何度も振り下ろされ、同時にけたたましい悲鳴が起きる。克夫は雪の上をのたうつものから眼を逸らすことができなかった。やがてそれは動かなくなった。
「やっつけたか……」父はかすれた声で言い、それから便所の電灯を点けた。薄明かりが裏庭一面を白く際立たせ、雪のなかに横たわる犬の形を映した。鼻の辺りに血が飛び散っている。
「手こずらせやがって」忠夫の声は白い息になって何度も闇に吹き出した。寒いのか怖いのか、克夫の体は震えてとまらなかった。
「バツじゃないよね、兄さん」克夫は最も気になっていたことを聞いた。
忠夫は克夫を見た。それから雪のなかから尾をつかんで見せた。黒い犬だったが長い尾がついていた。
「おれが間よかったもんか」
「ああ、よかった」それは克夫にとっての実感だった。強張った体の奥にほっとしたものが灯った。母は起きてこなかった。克夫がまた布団にもぐるとき、横から手を伸ばして丹前を肩の上まで引っ張ってくれた。それから寝返りを打って「忠夫は、戦争に行って恐ろしい人間になっちまった」とぽつりと言った。
父は返事をしなかった。克夫は暗闇で眼を開けていた。暗闇に安らぎの感覚はなかった。体はすっかり冷えきって、ひっきりなしに身震いが出た。
けっきょく、黒犬の肉は家族の食卓にのぼることになった。葱といっしょに煮て、醤油味がついていたが、克夫の口の中で固い肉の塊はいくら噛んでも柔らかくならず、喉を通らなかった。
「体があったまるぞ」と父は言い、「食われた魚以上に量が増えた」と忠夫は笑った。母や姉たちも少量だが食べた。また幾らかは隣家の柾屋にも分けられた。
剥いだ犬の皮は板に釘づけにされ、縁側で乾かされた。忠夫は「克夫の外套の襟につけたらいい」と言った。克夫は声が出なかった。
七時を過ぎても忠夫が帰宅しない。また酒でも飲んでいるのだろうと、みんなで夕食を始めたら、玄関があいて角の雑貨屋の店員が「警察から電話です」と告げた。父はあわてて出ていき、あわてて帰ってくると「忠夫が警察に捕まった」と言った。「何だかよくわからんが、船が捕まったというんだ」
 父はあたふたと身仕度をして出かけていった。
母は立ったり坐ったり落ちつかず、他の者も食事が中途半端になった。
夜遅く父は帰ってきたが、忠夫はいっしょでなかった。
何でも忠夫の乗っている漁船が操業ラインを越え、禁止海域に入って漁をしているところを、監視船に捕まったということだった。

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