叔父貴ならあちこち広くやってるし、前に会ったとき、何でも困ったら相談に来いって言ってくれたんだ。おれに向いてる仕事をみつけてもらうさ」
「どうも気に行らねえな。あいつは山師みたいなところがあって信用できねえ」
「だけど父さん、今の世の中、正義ばっかりじゃ生きていけないんだよ」
「いや、地道な仕事をコツコツ続けるのが一番いいんだ。そのうち暮らしも安定するさ」
「おれ、もうあんな地道な仕事なんてできない気がするよ」
「…………」
お父さんの声は聞こえなかった。
よく晴れていて、風が吹き抜けていくあたりがやけに眩しく、海は深い群青色(ぐんじょういろ)にキラキラと輝いていた。
埠頭(ふとう)には何隻もの大きな汽船が並んでいた。
軍艦の姿はもうどこにもなく、我が物顔で白い波をバシャバシャと蹴立てながら走る漁船の姿も見えた。
克夫がふと道路のほうに目を戻すと、お父さんとお兄ちゃんの姿はすでに崖(がけ)の向こうに曲がってしまっていて、もう見えなくなっていた。
それからまもなく、忠夫は家を出ていった。
しばらくして、札幌で土建屋さんをやっている叔父さんから、お父さんあてにハガキが届いた。
お父さんは一目見るなり、「ふんっ」と鼻で笑ってそれを放り投げた。
そのハガキは、まるで決闘状みたいにめちゃくちゃ荒々しい字で書かれていて、克夫にはちっとも読めなかった。
あとで芳枝(よしえ)が解読したところによると、「一人前になれるように面倒をみるからこっちに任せてくれ」と書いてあるとのことだった。
マイケル軍曹は、そのあとアメリカへ国へ帰っていった。
房枝(ふさえ)が夜、こっそり泣いていたことがあったけれど、二人の間が一体どういう関係だったのかは、芳枝にもまったくわからなかった。
房枝はすっかり口数が少なくなって、今までなら何でも話していた芳枝にすら、心を閉ざしてしまっているようだった。
下駄が売れる数は、確実に減っていった。
お金のことで、お父さんとお母さんはしょっちゅうケンカをするようになった。
世の中の動きに敏感な下駄屋たちは、靴も仕入れて履物なら何でも売るように商売のやり方を変えていた。
だけど、昔気質(かたぎ)でお堅いお父さんには、そんな器用なやり方や商売の才能なんて全くなかった。
年をとるにつれて頑固さと孤独だけが、お父さんの体に染みついていくようだった。
克夫と芳枝は、商工会議所の階段をトントンと登っていった。
ただ同じような階段が、方向を変えるたびに何度も目の前に現れて、だんだん足がジンジンとしびれてきた。心臓もドキドキと早鐘のように激しく鳴り響いていた。
やっとの思いで3階までたどり着くと、廊下に案内板が出ていたのですぐに会場がわかった。
壁には大人の絵がずらりと並んでいて、そのどれもが港の風景を描いたものだった。
子どもたちの絵(児童の部)の展示コーナーは、部屋の一番端っこのほうだった。
学校の先生から「克夫の描いた絵が〈開港五十周年記念美術展〉で金賞をもらったんだぞ」と聞いたとき、克夫は最初、何のことだかさっぱりわからなかった。
そもそも絵を出品したことすら忘れていたのだ。
「子どもたちの部で一番なんだぞ! クレヨンと墨の組み合わせ方がすごくよかったんだってさ」と言われて、やっとあの花火の絵を描いたことを思い出した。
「あった、あったよ!」と、先を歩いていた芳枝が大声で叫んだ。
あちこちで静かに絵を見ている人たちがいるのに、恥ずかしくなるくらい大きな声だった。
窓際のパネルの真ん中に、克夫の絵が飾られていた。
絵の右上に、キラキラ光る金色の紙がペタッと貼られていた。──夜空にとてつもない菊の大輪が開き、そのまわりに枝垂れ柳や花傘が垂れている。
下から噴き上げる火柱が噴水の行列みたいに何本も立ち並ぶ。
克夫はそれらをクレヨンも折れよと力を込め、勢いをつけて描いた。
ドン、ドドーンと声を出しながら描いた。
その上から墨を筆にたっぷりつけて塗り潰し、闇の深さを出した。
クレヨンの油性が水墨を弾き、色彩はかえって鮮やかになった。
画面の下のほうに大勢の見物人が上を向いている。
そこだけは墨を塗っていない。
炸裂する光に照らされて昼間のように明るいからだ。
「ここにいるのは誰さ」と芳枝は絵のほうへ首を伸ばして聞いた。
花火を見上げる群衆の顔は、顎が上になり頭髪が下になっている。
逆さの顔が幾つも、まるでジャガイモの山のように並んでいる。
それらの人々のうち、丁寧に描いた人物が二人いた。
一人は髪を七三に分けて眉毛をきりりと引き、もう一人は坊主頭で口を可愛く開けた。
「兄さんとぼく」と克夫は答えた。
「やっぱり、いく描いてあるもんね」
実際に花火を見に行ったのは、兄ではなく鉄郎といっしょだった。
戦後、初めて許可になった花火大会なので物凄い人出になった。
人混みのなかを克夫ははぐれないように鉄郎の服の端をつかんで歩き、やっと波止場に近い公園の芝生の上に腰かけることができたのだった。
やがて港内の海面の辺りから赤黒い玉が昇ったかと思うと、光が一瞬の間に信じられない大きさに弾け、同時に夜空を震わせる轟音が鳴り渡った。
克夫の頭はいきなり殴られたように空っぽになった。
それから闇の大絵巻が始まった。
放射の円を三度も立て続けに開くもの、長く尾を引いて頭に触れそうなところまで枝垂れるもの、広がったあとお互いに反対方向へ飛び散るもの──それらは克夫にこれまでにない興奮をもたらした。
最大の呼びもの、スターマインが打ち上げられると、大気はおろか坐っている地面まで揺さぶり、克夫を動けなくした。
火箭は間断なく吹き上げ、飛び散り、港の周辺はさながら大空襲の夜と見まがうばかりだった。
もし兄がこれを見ていたら何というだろう、と彼は思った。
こんなもの戦争に比べたら屁みたいなもんだ、というかもしれない。
おまえ、まさかびくついてるんじゃあるまいな、男ならしっかりしろ、というかもしれない。
冗談じゃない、と克夫は叫びたい気持ちだった。
花火の爆発力が克夫の心の底に眠っていた荒々しいものを呼び覚ました感じだった。
ぼくは兄さんみたいに腕力もないし、死に物狂いになったこともないけど、兄さんに見えない物が見えるんだから。
それを描くためなら命なんかいらないんだから──彼は両手を握り締め、弾けては潔く闇に消えていくものを見続けた。
……
「この犬はなあに?」
芳枝は画面の端のほうに描かれた黒い犬を指差した。
「バツだよ」と克夫は言った。
「バツは尻尾がなかったしょ。
この犬、こんなに大きな尻尾があるわ。
私は泥棒犬……」芳枝はそこで声をひそめた。
「あの食べちまった犬かと思ったわ」
「バツだってば。
尾をつけてやったんだ」
「……そうか、恰好わるいもんね。
わかるよその気持ち」芳枝は二度ほどうなずいた。
「違うんだ。
こいつはね、何ちゅうか……」
克夫は口ごもった。
それを言葉にするとバツへの思いが消えてしまいそうだった。
バツは嬉しいと尾を振ろうとした。
いや、見えない尾を振っていた。
彼はそれを描いてやったのだ。
絵のなかのバツは思いきり尾を振り立て、花火に向かって吠えていた。
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