初級翻訳・山家ものがたり 第1話

山家ものがたり

夜空を見上げて、星くずがキラキラと明るく光っているのを見つめていると、自分の心の中にも小さな星があって、心の暗闇を明るく照らしてくれているんだなぁと感じる。
ちょろちょろと流れる谷間の小さな川が、草の間を縫うように流れていくのを見ていると、自分の心の中にも細い小河が流れていて、心の草木をきれいに洗い流してくれているんだなぁと思う。
深い谷間にハラハラと散り行く花を見ていると、自分の心の中にも、時が来ればパーッと咲き、時が過ぎれば散っていくような、そんな花があるべきなのだと感じる。
どうか、心の中のぽつんと光る星に、自分の思いのままその光を思い切り放たせてほしい。ちょろちょろと流れる心の中の細い川に、流れるべき岸に沿って流れ、洗うべき心の草をしっかりと洗わせてほしい。小さな心の中の花に、自然と咲くべき花をパッと咲かせてほしいものだ。
たとえ闇夜と同じように、心の空に飛び交う黒雲がどれほど多くあったとしても、いつかは風が吹き払ってくれる時もあるはずだ。たとえ濁っていたとしても、心の底からこんこんと湧き出る水が多ければ、いつかはどこまでも澄みわたる時もあるはずだ。
なのに悲しいかな、まるで雷のように恐ろしい悪夢がビューッと飛んできて心を襲い、無駄に幻の言いなりになってしまうなんて、本当に悔しくてたまらない!
「山は静かにして自分の心(本性)を育て、水は動きをもって人の感情をなぐさめる」と言うけれど、自分の内側では心が動き、外側では世間に乱されて、山も水も自分を振り返る余裕なんてないし、自分もまた山や水を振り返る余裕なんてない。「もう泣き出してしまえ! 笑い飛ばしてしまえ! 全部めちゃくちゃに壊してしまえ!」と思うことがいったい何度あったことか。

これぞまさに風流であり、これぞまさに忍耐なのだ。人は人、自分は自分。どうしようもないことまで無理やり諦めて、人を罵るための百枚の役立たずな舌が、今度は自分自身を笑いものにする千枚の道具になってしまわないと言えるだろうか?
自分が今日まで抱いてきた願いはこういうものだったけれど、これでは心の星は明るくキラキラと輝くことはないだろうし、心の水はいつまでも長く流れ続けることもないだろうし、心の率はあざやかにパッと咲くこともないだろう。
空の星と一緒にきらめき、水と一緒に流れ、花と一緒に咲こうとするならば、もっとしっかりと情熱を燃え上がらせ、心の本気を呼び起こすべきだ。心が動くときにはとことんまで動き、魂が躍るときにはとことんまで躍り、「泣いてやる! 笑ってやる! 壊してやる!」と、この身にあるまじき激しい願いを起こして――。
それでもどこか涼しげな風流の殻を背負って、山や水のあいだを気ままに歩き回った昔の人もいるというのに、自分なんてこの不風流で、こんなにも分別(ぶんべつ)のない愚かな殻を背負ったまま、フラフラと心細く迷い込んでしまったのは、あの有名な「吉野の花の里」だったのだ。

あっという間に散ってしまう桜の花で、半年の生活費を稼ぎ出すと言われているこの里だからこそ、みすぼらしい農家にいたるまで、家の戸を思い切って外し、畳を新しくし、障子を張り替え、「〇〇屋、〇〇屋」と店の前に行灯(あんどん)まで出し、本当なら無い方がいいような古い毛氈(もうせん)まで敷きつめたりして、かえって田舎らしい妙な雰囲気をかもし出している。
「こりゃあすごい、これはこれは!」と思わず笑ってしまうような、昔の俳人・貞室(ていしつ)翁の風流な気分もありがたく感じられながら、「一目千本」の美しい霞をくぐり抜けて、蔵王権現(ざおうごんげん)の仁王門の前に差し掛かるころには、もうすっかり花に酔っ払ったような心地になっていた。

門を右手に見て、石垣のそばに腰掛けが二つほど並べられた、ほんの小さな「出茶屋(でぢゃや)」があった。
ここに腰を下ろして、お店のおばちゃんが出してくれたお湯の中に浮かぶ「桜の花の塩漬け」の、ふんわりと漂う良い香りがなんともうれしい。ここから西行菴(さいぎょうあん)までの道のりを尋ねてみたところ、テキパキとした四十歳くらいの女将さん(おそらくこの茶屋の店主なのだろう)が、タスキを外しながら、「ここから少なくとも五十丁(約五キロ)はあるよ。木こりや炭焼きの職人以外は、誰も通るような道じゃないねえ」と言う。
そんなふうに聞かされたら、「こういう時こそ道案内役がどうしても必要だ!」と思い、旅慣れた手つきで茶盆の上にチップを置き、「すみませんが、案内人を一人お願いできませんか?」と頼んだのだが、女将さんは手を横に振って「いや、それは引き受けられないねえ」と断ってきた。

ここに至って、中国の故事にある「蜀(しょく)を手に入れてもさらに欲が深まる」という昔の言葉ではないけれど、どうしても諦めきれないことは、どこまでいっても諦められないものだ。
「山奥だということは、承知の上で来ています!」
「谷底だということも、承知の上です!」
「夜は狐の巣になるような場所だということも、承知しています!」
「天井が破れ、壁が崩れて、見る影もないということも、すべて承知の上です!」
そこまで言うなら……と、女将さんは十二、三歳くらいの娘に店番を任せ、自分一人で二十分ほど山道を捜しに行き、やがて「探したけれど見つからなかったよ」と戻ってきた。「今日はこのあたりで一番有名な宗匠(俳句の先生)のお葬式があって、村の人はみんなそっちに出かけていっちまったんだよ」と、なんとも申し訳なさそうな挨拶ぶりである。
自分も「それはお気の毒なことをしたなぁ」と思い、「それなら案内は頼むまい。自分は旅慣れた身なのだ、五十丁くらいの山道がなんだ、藤村(自分のこと)、一人で行ってやろう!」と、痩せ我慢をしながらも気合を入れた。すると女将さんは自分の袖をグイと引っ張って、「おいおい、だったらこの娘を連れてお行き。道に迷うような心配はなくなるからさ」と言ってくれた。

田舎では珍しくもないことかもしれないが、何の飾り気もないその親切がたまらなくうれしくて、荷物まで預けて、さっそくその女の子と一緒に西行菴へと続く山道を一歩一歩たどっていった。
名前を尋ねてみると「お花」というそうだ。とてつもなく無邪気で純朴な雰囲気なのに、なんだか頼りなげな足元で草履を履き、おもしろがるわけでもなく、かといって不満そうにするわけでもなく、ただただ黙々と、自分の少し先をトボトボと歩いていく。年齢はほんの十二歳だという。
一里(約四キロ)ほど離れた村からお手伝いに来ているのだと言うから、あの出茶屋の親戚の子なのだろうか。時々、石につまづいたり、坂道で滑ったりしながら案内をしてくれる――これぞまさしく「心許ない道案内」というものだった。
「奥千本」と呼ばれる場所をいつの間にか通り過ぎて、いよいよ本格的な山道を登っていく。
吉野の村は真っ白な雲の中にすっぽりと隠れ、蔵王権現のお堂は満開の桜の海の間にすっぽりと埋まっている。振り返れば、何重もの山々がはるか遠くまで連なり、山腹の深くへと落ち込んだ谷の向こう側では、山の雲が風に吹かれてあちこちに激しく乱れ飛んでいる。
山道を歩いてくると、どこからともなくウグイスの鳴き声が聞こえてくる。

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